澤木 興道(さわき こうどう)は、日本を代表する曹洞宗の僧侶です。
1899年に福井県の永平寺(曹洞宗の大本山)で出家し、生涯独身&自分の寺を持たず、各地の道場を転々として坐禅を広めました。
その後、仏教系大学として有名な駒澤大学の特任教授として後進の指導にもあたった人物です。
そこで今回は、澤木 興道(禅僧)が残した名言を解説していきたいと思います。
禅僧の名言を理解すれば、スティーブ・ジョブズが愛した「禅」という考えを理解することもできるはずです。
今を生きる心得や考え方、心に響く格言ばかりなので、ぜひ最後までご覧ください。
澤木興道の名言集まとめ
今!今!今!一生が今の連続である。
禅の思想を理解するためには、「今を生きる!」という考えを持たなければいけません。
とにかく今が全てなのです。
明日のことは、今日わからない。
我々には現在の瞬間しか確かなことはわからない。
つまり今だけが本当だと思っておればよい。
未来のことは誰にも分かりません。
それであれば自分でコントロールできる今現在だけに集中しましょう。
- いまにみておれ
- いまに成功したら
というて未来に憧れている。
なにやらわからないものが偉いものになるつもりである。
負けん気を持つことは大切だと思いますが、妄想している暇があるなら、今を頑張りましょう!
人間のアタマというものには、一生古いやつが残っている。
過去に縛られて生きるのが人間かもしれませんが、後ろを振り返っているだけでは前進できません。
前だけを見るようにしましょう。
こうすればこれだけになるとか、ぼくはこれだけのことをしているのに、上司のやつは一向に目が見えんとかなんとか…
文句なしに自分のすることをしたらそれで良いじゃないか。
周りに不平不満を言ったところで、現状は何も変わりません。
それよりも今自分がやるべき目の前のことに集中しましょう。
本当にせねばならんことに努力しておるか。
せんでもいいことに努力しておるか。
一言に「努力」といっても、正しい努力と間違った努力があります。
もし間違った努力をしてしまった場合、どれだけ努力しても成果に結びつきません。
必ず正しい努力をするように気をつけましょう。
ただ働く。
ただ働くということほど愉快なことはないんじゃ。
どうかしてただ働いて、食わんで死んでやろうと思って頑張っておるけれども、わしらはまだ生きておる。
一生懸命命がけでただ働く。
働くということは、他人に尽くすことです。
誰かのために一生懸命働けば、巡り巡って自分も幸せになれるのです。
道徳というものは、人間の能力を悪用しないこと、人間の能力を最善に発揮することである。
道徳心というのは非常に曖昧ですが、この名言では明確に定義付けしてくれています。
この言葉を覚えておきましょう!
日の短い人と、日の長い人がいる。
ダラダラ過ごしていると、1日はとても長く感じますよね。
しかし、忙しく動き回っていると1日はとても短く感じます。
一年を振り返った時、どちらの人が充実した人生になるでしょうか?
俺は他人の鼻を借りて息をしておらん。
俺は俺の鼻で息をしているんだ。
この名言が言いたいことは、「自分の意志で人生を歩んでいるか?」ということです。
例えば今勤めている職場はどうでしょうか?
- 自分が本当に働きたいと思って勤めているのか?
- ただ給料が欲しいから勤めているのか?
- 仕事に対する情熱はあるのか?
何事も主体的に考えて行動しましょう!
私は誰にも遠慮ない。
たとえ西郷さんと並んでも、政治家や軍人では向こうが上じゃが、坊主じゃ俺が上じゃ。
澤木興道は日本を代表する禅僧(=プロフェッショナル)ですが、あなたは何のプロフェッショナルでしょうか?
自分の価値を高めるためには、ある特定分野のプロフェッショナルにならなければいけません。
もっと自分の価値を高めていきましょう!
人が喜ぶから喜ぶ。
人が泣くから泣く。
自分が本当に嬉しいんではない。
自分が本当に悲しんでもない。
人の真似をする生き方は窮屈で、主体性がありません。
もっと素直に生きればいいのです。
自分というものを既成させない、堕落させない、大人にさせない、一生求めて進んでいく。
「これで完成」とか「もうこれで十分」と思った瞬間に、成長は止まってしまいます。
ずっと成長し続けるためには「まだまだ…」という気持ちが大切なのです。
何が運が悪いと言っても、何が可哀想と言っても、自己を冒涜するもの以上のものはあるまい。
自分を否定すると何もできません。
たとえ自分が未熟でも、たとえ自分の能力がなくても、人間はやる気さえあれば大丈夫なので、決して悲観する必要などないのです。
たとえ今はダメでも、明日の自分はもっと成長して、1年後の自分はさらに成長しているはずです。
自分になりきる。
私が私になりきる。
あなたがあなたになりきる。
山が山になりきる。
茶碗が茶碗になりきる。
一切の物がそれ自身になりきる。
自分という存在は曖昧模糊なものです。
なので、まずは自分という存在を認めなければいけません。
人間とは不思議なもので「●●になりたい!」と強く願って、そのために行動し続ければ、それが実現できる生き物なのです。
自分に自分を自分で自分する。
色々なものを省略している言葉なので、かなり奥行きがありますよね。
頭が混乱する名言ですが、伝えたいことは「主体性をもって考えて、主体性をもって行動する」ということです。
例えばこの言葉を省略しないと下のようになると思います。
「自分に厳しく、自分を企画し、自分で決めて、自分で実行する」
このような柔軟性のある言葉は、座右の銘にぴったりだと思います。
どっちに転んでも良い。
要するに本当の自分になる、本当の自分をつかむのである。
どのような道を進むかは自分次第です。
しかしそれは心の向く方向でなければいけません。
その結果、どんな人間になったとしても、自分で決めた道だからOKなのです。
他人の真似ばかりしないで、自分さえ発揮すれば良い。
他人の真似ばかりする生き方はつまらないですよね。
もっと自分の個性を発揮していきましょう!
自分というものは、まるで玉ねぎの皮をむくようなもので、一皮むいたら中から身が出るかと思うと、また中に皮がある。
二皮むいても皮がある。
三皮むいても皮がある。
人間をタマネギに例えたユニークな名言です。
人生とは、ただひたすら自分の皮をむき続けることなのかもしれませんね。
悟りということは、自己を悟るのである。
いさめるのは自己をいさめるのである。
求めるのは自己を求めるのである。
ところが、それが分からないので、どこじゃどこじゃと遠いところばかり探し歩いている。
いくら探しても向こうにあるはずはない。
どこまで行っても仏はない。
仏は自己の中にあるのです。
つまり、自分は今の自分で、すでに仏なのです。
仏教に関する名言は下の記事をご覧ください。
月給のために仕事をするのじゃない。
仕事の時は全力で、仕事になりきること。
そうすれば、こんなに働いたのに、こんな月給じゃ馬鹿らしいという不平が起こるはずもない。
お金のために仕事をするのは、悲しいことだと思います。
ただ自分の時間を切り売りしてるだけなので、それで人生が豊かになるとは思えません。
働く場合には「なぜ働くのか?」という仕事の本質を考えましょう。
自己という話なら現代人は得意である。
何かにつけて自己を振り回したがる。
しかしそのいわゆる自己はどうも本物の自己ではない。
「自分とは何なのか?」
これは哲学的な問いですが、その答えについて考えてみると、自分という人間は全て周りから形作られたものだと気付くはずです。
氏名、年齢、職業、年収、出身地…
どれも自分が主体的に付与したものではありませんよね。
つまりどれも本物の自己ではないのです。
そう考えた場合、本物の自己とは何なのでしょうか?
それは「自分の意思」です。
これだけが本物の自己なので、禅では主体的に生きることを大切にしているのです。
これと同じような考えを持っていた哲学者がいます。
それはルネ・デカルトです。
デカルトの名言は下の記事をご覧ください。
勝ちだ、負けだ、悟りだ、迷いだ、そんなことが何か。
迷わん以前、勝ち負け以前のものをつかめ、そこに本当の自己がある。
勝ち負けとは結果のことです。
何事も結果が重要なのでなく、過程が重要なのです。
私は覚えるのが嫌いじゃ。
人の言うたことをいちいちそのまま暗記する。
ばかばかしい、骨が折れるだけじゃ。
そんな事を覚えるより、自分の勝手なことを喋っておる方が良い。
自分勝手な言葉に聞こえますが、人の顔色を伺ったり、人の意見を加味しながら生きる窮屈さを否定した名言なのです。
人間はもっと自由に生きられます。
どのように生きるかは自分次第なのです。
全部のことを考えねばならぬ。
自分のことばかり考えておったら、それはつまらぬ男である。
「全部」とは社会全体のことを意味しています。
自分だけ出世しようと考えたり、自分だけ美味いものを食べようと思ってはいけないのです。
無心ということは、つまり己を抜きにすることであり、己を抜きにすれば人生全ての事で解決しない問題はない。
これは博愛主義のように聞こえますが、もう少し深い概念だと思います。
自分には全くメリットがなかったとしても、社会全体に奉仕すれば、全ての問題は解決すると言っているのです。
個々人が自分の利益だけを追求するから、色々な諸問題が発生するのです。
根本をひっくり返すことじゃ。
ひっくり返して、己のあることを忘れることである。
これは目から鱗の名言だと思います。
主体性を求め続けると、いづれ自己の利益を追求するようになります。
そのような状態をリセットするために重要な考え方だと思います。
つまり「自」の反対は「公」ですが、「公=自」という感覚に落とし込むのです。
透明になることである。
自己が透明にならなければいかん。
こいつをどんな美しい色にでも染めたらいかん。
社会には既得権益があったり、利害関係が複雑に絡み合っています。
そのような争いに巻き込まれるのではなく、フラットな心でいるべきだと言っているのです。
「用心」というのは、火の用心とか、盗人の用心とか、色々用心しなければいけないことがあるが、一番難しいのは自分の用心である。
世の中には誘惑が多いので、それに負けないようにしましょう。
我々はせっかく光っている鏡を持ちながら、自分の妄想がそこにモヤモヤしているから曇って見えるのである。
この名言が伝えたいのは「邪念を捨てろ」ということだと思います。
自分本来の姿を見るためには、損得感情を捨てて、ありのままの気持ちで、素直に生きることが大切です。
「これくらいしてやっているのに、なぜ礼を言わんのか」と言ったら、「これだけ俺にくれておいて、お前は嬉しゅうないのか」と言うて逆ネジを食わされたという話がある。
せっかくやるのなら、無心でやったら良いじゃないか。
相手からの見返りを求めてはいけません。
ただ与えるだけで良いのです。
誰でも、いくらもらえばそれでたくさんだとは言わない。
もっと欲しい欲しいで血眼になっている。
ところが、やる側には限りがある。
貰う側には限りがない
求めるのではなく与えましょう。
人間の欲求は底知れないのです。
小欲の人は、どっしりして腰がすわってくる。
腹がすわれば、度胸がすわる。
勇気が出てくる。
欲の深い者に本当の勇気などあろうはずがない。
欲が少ない人ほど、失うものがありません。
しかし、欲が大きい人ほど、失うものも大きくなるのです。
我々人間というやつは内側に持っておれば良いものを、すぐ外側へ出したがる。
内側へ戻すということが肝心である。
「口は災いの元」とも言いますよね。
後先考えない行動は、トラブルの原因になるので注意しましょう。
砂糖はどんなものかいってみようと言われても、砂糖はこんなこんなものだということはできない。
舐めてみるより仕方ない。
舐めなければ砂糖の味がわからない。
「百聞は一見にしかず」と言いますが、何事も経験することが一番手っ取り早いと思います。
そして、実際に経験しなければ、その本質もわからないのです。
この世界を、死んで眺めるということが大切である。
棺桶の中から見物したら、この世界は面白い。
棺桶の中というのは、自由に動けませんよね。
そのような不自由な状態になった時こそ、現実の自由が実感できるのです。
今からだって何でもできるのです。
負けるなら、心地よく負けたらいいじゃないか。
それを気持ち悪く負けて、恨んで、畜生と喧嘩腰になって、腹を立てている。
馬鹿馬鹿しいことだ。
自分の全力を出し切って負けたなら仕方ありません。
そこでイライラするより、それを教訓とした改善に繋げていきましょう!
迷いというものは体と心が離れ離れになっていることである。
魂と胴体が別々になっていることである。
頭では冷静に考えていたとしても、心が納得してないケースはあると思います。
そのような時に身体はちぐはぐになってしまうのです。
自分でバタバタしないことである。
しかし努力しないことじゃない。
「人事を尽くして天命を待つ」と言うが、それこそ人事を尽くせるだけは尽くさなければならん。
精一杯努力したら、あとは結果を待つだけです。
その後にバタバタしても意味がありません。
人事尽くした後は、自分でコントロールすることができないのです。
災難が来たら、ここが鍛錬のしどころである。
男一匹こういう時に鍛錬しなければならんという気持ちになる。
災難はネガティブに考えがちですが、そうではなく成長できるチャンスだと考えましょう。
それだけでも取り組み方が違ってくると思います。
まとめ
ここまで禅僧の名言をご紹介してきました。
澤木興道は有名な禅僧なので、何か得るものがあったはずです。
スティーブ・ジョブズ(アップルコンピューター創業者)も禅に大きな影響を受けたと言われているので、ぜひジョブズの名言集もご覧ください。