
オードリー・ヘップバーンと言えば、世界中の女性が憧れた大女優ですよね。
「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンはとても可愛らしく、世界中を虜にしました。
そういった意味では”大成功したビジネスパーソン”なのですが、私生活や考え方についてはあまり知られていませんよね。
そこで今回は、オードリー・ヘップバーンの名言集をご紹介したいと思います。
仕事に関する名言や、プライベートに関する名言、愛情に関する名言などを幅広く解説したいと思います。
ビジネスウーマンだけでなく、ビジネスパーソンはぜひご覧ください。
オードリー・ヘップバーンの略歴
1929年(0歳) ベルギーのブリュッセルに生まれる。
1935年(6歳) 両親が別居。バレエと出会う。
1938年(9歳) 両親が離婚。
1941年(12歳) バレエ公演で好評を博す。
1947年(18歳) 「オランダの7つの教訓」に端役で出演。
1948年(19歳) イギリスのロンドンで有名バレエ・スクールに入学する。
1949年(20歳) プリマ・バレリーナにはなれないと悟り、女優を目指し始める。
1950年(21歳) 「天国の笑い声」や「若草物語」などに端役で出演。
1951年(22歳) 「初恋」で準主役を演じる。
1953年(24歳) 「ローマの休日」でハリウッド・デビュー。
1954年(25歳) 「ローマの休日」でアカデミー主演女優賞を受賞。舞台「オンディーヌ」でトニー賞を受賞。俳優で演出家のメル・ファラーと結婚。
1956年(27歳) 「戦争と平和」でメル・ファラーと夫婦共演。
1957年(28歳) 「パリの恋人」に出演
1959年(30歳) 「尼僧物語」に出演
1960年(31歳) 第一子を出産
1961年(32歳) 「ティファニーで朝食を」に出演
1964年(35歳) 「マイ・フェア・レディ」に出演
1966年(37歳) 「おしゃれ泥棒」に出演
1968年(39歳) メル・ファラーと離婚。
1969年(40歳) アンドレア・ドッティと結婚
1970年(41歳) 第二子を出産
1981年(52歳) 「ニューヨークの恋人たち」に出演
1982年(53歳) アンドレア・ドッティと離婚
1987年(58歳) ユニセフ親善大使としてスピーチする。
1991年(62歳) 湾岸戦争が勃発し、反戦のスピーチをする。
1993年(63歳) スイスのトロシュナで逝去。
オードリー・ヘップバーンの名言集まとめ
私は自分を美人だと思ったことがありません。
「世界一美しい女優」と言われていたオードリー・ヘップバーンですが、自分のことを美人とは思っていなかったらしいです。
- 痩せている
- バストが小さい
- 背が高すぎる
- 足が大きい
- 歯並びが悪い
- 顔が四角い
- 鼻孔が大きい
色々なコンプレックスを持っていたそうです。
欠点から目をそらさずに正面から向かい合い、欠点以外のものに磨きをかけるのです。
完璧な人間など存在しません。
人間には必ず欠点があるので、それから逃げずに向き合うことが大切なのだと思います。
自分を客観的に見なくてはなりません。
ひとつの道具のように自分を分析するのです。
オードリー・ヘップバーンは幼い頃からバレリーナを夢見ていました。
しかし背丈が170cmと高すぎた為、20歳でバレリーナになる夢を諦めます。
この頃から背が高さを活かせる「モデル」や「女優」へ本格シフトしていったのです。
フリルを取り去って、リボンを取り去って、さらに不要なものを取り去れば、肝心なモノの輪郭がはっきりと見えてきます。
これはお洒落について語った名言です。
オードリー・ヘップバーンはシンプルな服を好んだので、一番好きなブランドはGIVENCHY(ジバンシィ)だったそうです。
その一方でこの言葉は、人間自体について語っているようにも見えます。
色々なモノで取り繕うと、本来の魅力が薄れてしまうので注意しましょう。
お世辞からは何も生まれません。
オードリー・ヘップバーンは”うわべだけの言葉”を嫌っていました。
「好かれるための努力はしない」のがオードリー流みたいです。
セックス・アピールというのは、心の深いところで感じるもの。
見せるよりは、感じさせるものなのです。
オードリー・ヘップバーンには「体が華奢」「胸がない」などのコンプレックスがありました。
それを打ち消すように「私は服を着たままでもセックス・アピールができます」と語っていたそうです。
具体的には「木からリンゴをもぐ」とか「雨の中に立っている」という仕草だったとしても、十分色気は出せるそうです。
ダイエットはしていません。
オードリー・ヘップバーンのようなスタイルに憧れる女性は多いですが、本人曰くダイエットはしていないそうです。
元々はバレリーナだったので体型を気にすることはあったそうですが、基本的には食事を気をつけるだけみたいです。
具体的には野菜を中心とした食事にして、タンパク質も意識しながら摂っていたそうです。
その一方で多少のタバコとアルコールは楽しんでいたみたいです。
若く見えるとしたら、それはきっと、たっぷりのモイスチャーライザーと、歩くことと、睡眠のおかげ。
オードリー・ヘップバーンは歩くことが大好きだったそうです。
しかもゆっくり散歩するのではなく、早足でガンガン歩くのが好きだったそうです。
そして自分に最適な睡眠時間は「8時間」だと理解していたので、極力それ以上寝るようにしていました。
年とともに自分が変わっていくのがわかります。
でもそれを直視しなければいけません。
オードリー・ヘップバーンは白髪を染める事がなかったそうです。
そして皺も隠すことがなく、自然体を貫き通したのです。
この世で一番素敵なことは笑うことだって本気で思います。
オードリー・ヘップバーンは「笑顔が幸福を引き寄せる」と考えていたみたいです。
だから”自分のことを笑わせてくれる人”が大好きだったのです。
仕事にも恋をしているのに、彼と結婚するのは、彼に対してアンフェアだと感じたのです。
女性にとって、仕事と結婚を両立させるのは大きな課題ですよね。
この言葉はオードリー・ヘップバーンが23歳で婚約解消した時の名言です。
オードリー・ヘップバーンは「結婚したら少なくとも1年間は仕事をやめて、主婦に専念したい」という考えだったので、「ローマの休日」のヒロインが決まったタイミングで結婚することができなかったのです。
私にも愛が必要です。
愛したいし、愛されたいのです。
オードリー・ヘップバーンは愛情深い人として知られていました。
恋人だけでなく、家族や友人、さらには世界中の人々に対しても愛情を持っていたのです。
それが晩年のユニセフ大使を通じた平和活動へと繋がっていきます。
私達が仕事で行った場所がどこであれ、それが我が家でした。
私たちはカタツムリのように家を背負って歩くのです。
オードリー・ヘップバーンは、とにかく家庭を大切にする人でした。
最初に結婚したメル・ファラーも俳優だったので、どうしてもホテル住まいが多かったそうですが、そのホテルには自分たちの荷物を運び込み、食器やベッドカバーなどを全て入れ替えていたそうです。
子供が生まれると、私は妻として望める全てを手に入れたと感じました。
けれど、夫は違いました。
オードリー・ヘップバーンにとっては初産でしたが、夫のメル・ファラーは二度の離婚経験者で、子供も四人いました。
なので、だいぶ温度差があったようです。
そしてメル・ファラーは映画監督もこなす野心家だったので、家庭よりも仕事を優先するタイプでした。
このあたりの価値観が違ったようです。
彼に出逢った時、頭にレンガが落ちてきたみたいでした。
オードリー・ヘップバーンはメル・ファラーとの離婚に向けて別居している時、二人目の夫となるアンドレア・ドッティと出会います。
その時の名言がこの言葉です。
なんともロマンティックな表現ですよね。
夫や子供が帰ってきた時に、不機嫌な妻や母親ではいたくありません。
オードリー・ヘップバーンは40歳で第二子を出産し、前夫との第一子、アンドレア・ドッティの家族四人で暮らしていました。
そんなオードリーでしたが、家庭を大切にする人なので「主婦業」に専念したいとも考えていました。
その一方で「二度目の離婚(失敗)をするわけにいかない」という気持ちもあったのだと思います。
もしも夫が女性に望むものを私が与えられずに、感情的にも、肉体的にも、性的にも、夫が他の女性を必要とするようなら、私は潔く身を引きます。
アンドレア・ドッティはイタリア人&プレイボーイで、しかもオードリー・ヘップバーンより9つも年下だったので、女遊びが激しかったそうです。
さらに結婚&出産してからも夜遊びをやめず、とても不誠実だったので、すぐに結婚生活は破綻しました。
そのような状況の中で発した名言ですが、オードリー・ヘップバーンの勝気な性格が見え隠れする言葉だと思います。
「一緒にいなければならない」からではなく「一緒にいたい」からそうしているのです。
アンドレア・ドッティとの結婚生活が破綻した後、オードリー・ヘップバーンはロバート・ウォルダーズ(俳優)と出会いますが、その時の年齢はオードリー・ヘップバーン(51歳)、ロバート・ウォルダーズ(44歳)でした。
メル・ファラーとアンドレア・ドッティは女性を支配するタイプの男性でしたが、ロバート・ウォルダーズは献身的な人だったので真逆のタイプだったそうです。
そのようなロバートの個性についてオードリーは「彼は私のために存在している」と表現しました。
愛は行動なのよ。
言葉だけではダメなの。
言葉だけで済んだことなど一度だってなかったわ。
人間は気持ちを察することができますが、全て正確に理解することはできません。
やはり言葉だけでなく、行動で示すことが大切なのでしょう。
チャンスなんて、そうたびたび巡っては来ません。
だから、いざ巡ってきたら、とにかく自分のものにすることです。
これは”チャンスを掴み取る大切さ”について語った名言です。
これと同じような言葉を多くのCEO(経営者)も語っているので、そちらもぜひご覧ください。
私はこの不安や劣等感をどうにかしてプラスに転じたかった。
そのためには、強い精神力を養う以外に方法はないと思い、努力したのです。
無名だったオードリー・ヘップバーンは監督や配給会社にこびることなく、毅然とした態度を貫きました。
例えば「ローマの休日」のヒロインが決定した時、映画会社から名前を変更するように要望されたそうです。
有名女優である「キャサリン・ヘップバーンと混同するから」という理由でした。
それに対してオードリー・ヘップバーンは「名前ごと受け入れてくれないのなら、ヒロイン役もいらないです」と告げたのです。
きっぱりと決断する人だけが成功するのです。
これは”自分で意思決定する重要性”について語った名言です。
オードリー・ヘップバーンは美しさだけでなく、強さも兼ね備えていたのです。
父に捨てられたことは、私の人生で最もショッキングな事件でした。
オードリー・ヘップバーンが6歳の頃、両親が別居します。
喧嘩が絶えない夫婦だったので、オードリーはいつもテーブルの下に隠れて耳を塞いでいたそうです。
父親は家を出て行ったあと、自分から会いに来ることは無かったそうですが、オードリーはずっと会いたいと感じていました。
ちなみにオードリーが31歳だった時、音信不通だった父親を探し出して再会することができたそうです。
戦争によって、逆境に負けない強靭さが身につきました。
オードリー・ヘップバーンは第二次世界対戦を経験したので、反戦運動に熱心でしたが、「戦争は私に積極性を与えてくれた」とも語っています。
「戦争を生き延びた」という経験によって、人生観が変わったのだと思います。
生きているうちに、なるべく多くのことをしたかったのです。
なぜならもうそろそろガソリン切れになりそうだから。
晩年のオードリー・ヘップバーンは、ユニセフ親善大使として世界中を巡りました。
そこで見た悲惨な現状を世界へ発信したのです。
そしてソマリアへ視察して、帰ってきた後に末期の大腸癌が発見され、スイスの自宅で亡くなりました。
私にできることはわずかですが、思いがけない贈り物をもらった気持ちです。
自分が有名になったのが、何のためだったのか、今やっとわかったからです。
晩年のオードリー・ヘップバーンはユニセフの活動に専念します。
自分自身が第二次世界大戦を経験し、食糧難によって栄養不足に陥り、医療援助を受けた経験があるので、ユニセフ活動に共感したのです。
オードリー・ヘップバーンは世界中の人々に対して、
- 子供を否定することは命を否定することです。
- 子供の発言力をもちません。私たちの助けが必要なのです。
- 子供たちを救うことは神から与えられたチャンスです。
と訴えて、自分の役割を全うしたのです。
犠牲というのは「したくないことのためにしたいことを諦める」ということでしょう。
これは犠牲なんかではありません。
私が授かった贈り物です。
この言葉は「あなたは自分の時間を犠牲にしているのではありませんか?」と聞かれた時に反論した名言です。
ユニセフの親善大使には交通費や宿泊費が出るそうですが、基本的に無給なので、ボランティア活動に当たります。
その上、危険地域へ出向くので、身体的なリスクもあります。
それでも積極的に活動したオードリー・ヘップバーンを、「デザイナージーンズを履いたマザー・テレサ」と世界は評価したのです。
マザー・テレサもクリスチャンだったので、共通する部分は多いかもしれませんね。
マザー・テレサの名言集は下の記事をご覧ください。
国連安全保障理事会の5つの常任理事国が、全世界の兵器の90%を売っているのです。
これはオードリー・ヘップバーンが指摘した矛盾です。
国連(国際連合)の主な活動目的は、国際平和と安全の維持、経済・社会・文化などに関する国際協力の実現ですが、そのトップである常任理事国が世界平和を乱していると語ったのです。
オードリー・ヘップバーンは芯が強い人
ここまでオードリー・ヘップバーンの名言集をご紹介してきました。
最初の頃、オードリー・ヘップバーンはバレリーナを目指していましたが、身長の高さ故に夢を断念し、逆に高身長が活かせるモデルや女優業に転向しました。
当時のハリウッドはアングラな業界だったはずですが、そこでは自らの信念を貫き、見事に大女優として成功を収めたのです。
その一方、私生活では「主婦業」に奮闘し、なんとか幸せを掴もうとしますが、何度も挫折することになります。
それでも家族を求めたオードリー・ヘップバーンは、最終的に最愛の人(ロバート・ウォルダーズ)と出会うことになります。
そして知名度のある自分がやるべき仕事「ユニセフ親善大使」という生きがいを見つけて、その活動に生涯を捧げたのです。
60歳という若さで”末期の大腸癌”と診断されてしまいますが、オードリー・ヘップバーンは「病気になるのは自然なこと」と言って治療を拒んだそうです。
最後まで毅然とした態度を貫いたオードリーを見て、家族は清々しく最後を見届けられました。
このような”芯のある生き方”には、誰もが憧れると思います。
「美の象徴」として語られることが多いオードリー・ヘップバーンですが、強い信念を持っていて、自らの生き方を貫いた人物だったのが理解できたはずです。
歴史上の偉人はみんな信念を貫いて生きていました。
それは日本も例外ではないので、激動の時代と言われた明治維新の偉人たちが残した名言集もぜひご覧ください。