
内村鑑三は、キリスト教に関わる人にとっては有名な偉人かもしれません。
しかし宗教に関係しない人にとっては「名前は知っているけど何をした人??」という感じだと思います。
内村鑑三はキリスト教思想家ですが、日本独自のいわゆる「無教会主義」を唱えたので、そういった意味では独自路線を貫いた人物だと言えるでしょう。
このように新しい考えを創造できる人物には、きっと多くの学びがあるはずです。
そこで今回は、内村鑑三の名言集をご紹介したいと思います。
内村鑑三の名言集まとめ
私は、自分自身を注意深い観察の材料にしました。
人間は誰しも「私の存在意義は何なのか?」と考えますよね。
内村鑑三は「自分自身を見つめ直す」という作業の中で、自分の存在意義に気づいたので、それをきっかけにしてキリスト信徒になっていきます。
自分は日本のために
日本は世界のために
世界はキリストのために
凡ては神のために
これはいわゆる「キリスト信徒っぽい名言」なのですが、実は内村鑑三の墓石にも刻まれている言葉として有名です。
内村鑑三は自分の一生を『キリスト』と『日本』のために捧げると誓っていたのです。
余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる賛美の声なし、余の為に祝福を祈る牧師なし、然らば余は神を拝し神に近づく為の礼拝堂を有せざる乎。
これは内村鑑三が理想とするキリスト教の「無教会」について語った重要な名言です。
「無教会」は内村鑑三の考え方を理解するためには大切なポイントにとなるのですが、無教会とは「教会の無い者の教会」という意味になります。
私をして只に死んでから天国に往くばかりでなく、私は茲に一つの何かを遺して往きたい。
内村鑑三は、人間が欲しがる”名誉”や”お金”などに執着していませんでした。
ただシンプルに日本の自然や地球への貢献を考えていたようです。
金を遺すものを賤めると云う人は矢張り金のことに賤しい人であります。
内村鑑三はお金に興味がありませんでしたが、それでもお金を稼ぐ実業を否定することはありませんでした。
むしろ「ビジネスは必要である」と推奨していたのです。
なぜかといえば、ビジネスをすることによって『労働の提供』ができるので、それが結果的に社会貢献へと繋がっていくからです。
このような考え方は、京セラ創業者の稲盛和夫やパナソニック創業者の松下幸之助に通じる部分があります。
稲盛和夫の名言集は下の記事をご覧ください。
多くの人は自己の天職を発見せんとて非常に苦悶します。
内村鑑三は「天職を発見する方法は、今目の前にあることを一生懸命やるだけだ」と語っています。
これは奥行きのある言葉ですが、人生は点が線になって形成されるものなので、個人的にはとても腑に落ちました。
人生の大部分はドラッジャリー(drudgery:骨折り仕事、退屈な仕事)である。
自分の仕事が退屈だと感じたり、「意味があるのか?」と疑問に思うことは多いですよね。
しかし、この言葉の通りであれば問題ありません。
この名言が伝えたいのは、要するに「苦労をしなければ大成しない」ということです。
祈祷は聴かれないのではない、今聴かれないのである。
宗教では”祈り”を重要視していますが、真面目に祈っていた人でも病気になったり、不幸な目にあったりしますよね。
このことについて内村鑑三は上のような名言を残したのです。
真の寛大とは、私が思うに、自分自身の信仰に揺るぎない確信を持ちつつも、あらゆる誠実な信仰に対しては、それを許容し認めることであります。
この名言から理解できるのは、内村鑑三は他宗教を認めていたということです。
ユダヤ教やイスラム教など、様々な宗教戦争が起こっていますが、内村鑑三は恐らく『自由信仰主義者』だったのでしょう。
我は我桶を売らんとて外に行かない、人は我桶を買わんとて我許に来る。
これは桶職人について語った名言です。
桶作りを天職にしたいなら、内村鑑三は「ただひたすら桶作りについて学ぶべき」と語ったのです。
そうすれば自ら売り込まなくても、お客様の方から買いに来てくれるからです。
世界一の投資家と言われるウォーレン・バフェットは「お客様から指名されるビジネスが良い事業」と語っています。
例えば、もしハンバーガーを食べたいなら「マクドナルドのハンバーガーを食べたい」とお客様から指名されるのが良いビジネスということです。
バフェットの名言集は下の記事をご覧ください。
真理は円形に非ず楕円形である。
内村鑑三は中心が2つある楕円形こそが真理だと考えていたようです。
なぜかといえば、世界は相対的なので、必ず自己と他己が存在しているからです。
実際的方面に於いて宗教は慈愛と審判である。
これはキリスト教の神髄について語った名言です。
慈愛というのは『愛』であり、審判というのは『義』を意味しています。
このように紐解くとしっくりきますが、この辺りを理解するためには儒教についても学ぶべきでしょう。
儒教の祖といえば孔子ですよね。
孔子の名言集は下の記事をご覧ください。
無教会は進んで有教会となるべきである。
内村鑑三は無教会主義者ですが、その主義とこの言葉は矛盾しますよね。
しかし内村鑑三が提言しているのは、物理的な教会を作るという話ではなく、形のない団体(=有教会)にするべきということです。
つまり『その団体がみんなの拠り所となる』ということです。
余に一つ耐えられない事がある。
其事は人が他の人を己の宗教に引入れんとする事である。
内村鑑三は「信教の自由」を掲げているので、自分が信じる宗教を自ら選ぶのが正解だと考えていたようです。
新興宗教は信者集めに必死ですが、それはやはりビジネスとしての側面が大きいからでしょう。
本当の拠り所となる宗教は、きっと勧誘などしないのだと思います。
余は日露非開戦論者である許りではない、戦争絶対的廃止論者である。
内村鑑三は戦争を否定していました。
その理由は「戦争は人を殺すのでダメ」というシンプルなものです。
とても分かりやすいですよね。
顧みれば余の人生にも亦重大なる危機があった。
その時何かの助けが来らざりしならば狂か自殺か余は到底起つ事ができなかったのである。
内村鑑三の人生も、決して平坦ではなかったようですね。
誰にでも辛い時期や苦悩の日々があると思いますが、それが永遠に続くわけではないので、前向きに頑張りましょう!
天災に意思もなく道理もあるまい。
したがって之は神の刑罰ではあるまい。
どんなに祈っても、自然災害を避けることはできません。
それは単なる『天然的現象』なので、内村鑑三は「仕方がないこと(=信仰心とは関係がない)」と語っています。
近代人は自己中心の人である。
内村鑑三は近代人を批判していたようです。
確かに現代は個人同士のつながりが希薄になっているので、内村鑑三が目指す『愛』や『義』の社会とは違うかもしれません。
やはりこの辺りは改善するべきポイントかもしれませんね。
家族の有る処には必ず家庭が有るとは言はれません。
内村鑑三は「家族は肉体でありまして、家庭は霊魂である」と語っています。
ちょっと難しい表現ですが、家庭は魂の拠り所なので、家族がいるから家庭ができるというわけではないということです。
もちろん自宅という物理的な建物があったとしても、家族みんながそこを拠り所にしなければ”家庭”は成り立たないということです。
これは内村鑑三の提唱する「無教会主義」にも通じる考え方ですよね。
たとえキリスト教を信仰していなくても、『家庭=有教会』と考えれば、内村鑑三の提唱する『拠り所』という言葉の意味が理解できるはずです。
札幌農学校は余の母校ではない、乳母校である。
内村鑑三は札幌農学校の出身ですが、札幌農学校といえばクラーク博士や新渡戸稲造ですよね。
新渡戸稲造は内村鑑三の親友でもありましたが、新渡戸稲造の名言集は下の記事をご覧ください。