
一休さんと言えば、国民的アニメが有名ですよね。
幼児向けの童話にもなっているので、多くの人にとって馴染みのある人物だと思います。
ちなみに、一休禅師は「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)」という名前で知られていた、室町時代(1400年代)に実在した臨済宗僧侶です。
一休さんはたくさんの詩を残していますが、禅の思想が強いので、心揺さぶる名言が多いのです。
ちなみに禅を好んだ経営者といえば、アップル創業者のスティーブ・ジョブスが有名ですよね。
一流のビジネスパーソンが参考にする「禅(ゼン)」という考え方は、きっと仕事にも役立つはずです。
そこで今回は、一休禅師の名言集(詩集)をご紹介したいと思います。
一休禅師の名言まとめ
嘘をつき 地獄に落つる ものならば 無き事つくる 釈迦いかがせん
<意訳>「嘘をつくと地獄に落ちるぞ」と子供の頃から注意された。しかし嘘をつかずに生きていくことはできないだろう。お釈迦様だって地獄とか極楽とかありもしないのに嘘を言っているではないか。
僧侶にしては、意外と現実的な話をしますよね。
禅ではそもそも神様、仏様の存在を否定しています。
まずはその点を理解しておきましょう。
大水の 先に流るる 橡殻(とちがら)も 身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ
<意訳>台風になった後、川が水で一杯になった。激しい流れの中でも、トチの実の殻が踊るようにクルクル回っている。殻は中の実を捨てたから、大水の中でも浮かべるのだろう。
生きていると色々な重荷を背負いますよね。
それらを捨てれば、もっと楽に生きられる事を語っている名言です。
妄執(もうしゅう)の 雲をしさても はるけには 身の成る果てに 地獄天堂
<意訳>一心不乱に、ただ言われるままに前進することだけが正しい生き方だと思い、深く考え込んで雲に隠れた。ぼんやりした目標ばかりを追っていると、最後には地獄の釜の中へ落ちるぞ。
これはつまり自分の意志で生きることを推奨しているのです。
人から言われたり、受け身の姿勢ばかりでは、幸せになれないのです。
色相は その時々に 変わるとも 不生不滅の 心変わらじ
<意訳>世の中の状況や環境はどんどん変化していきます。そのような変化は不安に感じますが、大自然の変化は大きくありません。毎年、春夏秋冬が順番にやってきて、絶対に変わることがないのです。
自分の世界に閉じこもるのはやめましょう。
そうではなくて大自然に目を向けるべきなのです。
それこそが禅の本質だからです。
今日褒めて 明日悪く言う 人の口 泣くも笑うも 嘘の世の中
<意訳>今日褒めたのに、明日になるとけなされる。世の中の評判というものは、良くも悪くも大半が真実でない。
これは周囲に振り回される人生を揶揄している名言です。
周りの評判などどうでも良いのです。
自分らしく誠実に生きていれば、周りの評判を気にすることもなくなるはずです。
鬼という 恐ろしいものは どこにある 邪見な人の 胸に住むなり
<意訳>恐ろしい鬼はどこにいるのか。それは人間の心の中にいるのです。
鬼とは「考え方」のことです。
禅では自分の心の中に仏がいると考えています。
それと同時に鬼もいるのです。
行く末に 宿をそことも 定めねば 踏み迷うべき 道もなきかな
<意訳>今日泊まる場所を決めなければ、道に迷うこともない。
「今日はあのホテルに泊まろう」と決めた場合、そこへ行くためのルートを探し出して、その道を進もうとしますよね。
その途中で道を間違えれば、また戻ってホテルへ向かうのです。
そのようなことをせず、「どのホテルでも良い」という気持ちでいれば、もっと楽に生きられると語っているのです。
昔は地図もスマホもなかったので、このような考え方になったのでしょう。
絵に写し 木に刻めるも 弥陀(みだ)は弥陀 かかず刻まず 弥陀はいずくぞ
<意訳>絵に写したり、木に刻んだのは阿弥陀ではない。それでは本当の阿弥陀はどこにいるのでしょうか。
本当の阿弥陀は心の中にいます。
ただ目に見えないだけで、体の中に満ちているのです。
仏道に 悟れというのは 何事ぞ 因果菩提を 会得するなり
<意訳>仏教の悟りというのは、今日何かをすることではありません。坐禅をしていれば(=因)必ず呼吸が整って、自然に悩みや迷いが消えていきます。そうすると明るく元気で幸福な生活(=果)が送れるのです。
「因果応報」は四文字熟語ですが、原因と結果が結びついていることを意味しています。
禅にもそのような考え方があるようです。
四字熟語の名言集は下の記事をご覧ください。
心こそ 心惑わす 心なれ 心に心 心許すな
<意訳>良いとか悪いとか判断する心が、結局自分を惑わしてしまうのです。善悪に敏感な心に注意しましょう。
「心」が多い詩ですが、ここで言いたいのは「人間は迷う生き物である」ということです。
心という曖昧なものがあるから、人間はフラフラするのです。
そうではなくて絶対的な真理を求めましょう。
それが仏教で言う「大自然」であり「大宇宙」なのです。