経を見て その善悪を 取りぬれば 善悪ともに 悪にこそなれ
<意訳>お経を見て、阿弥陀経がいいとか涅槃経がいいとか、善悪を論じるのは良くないことである。
そもそも良いとか悪いとか、決めようとするのが良くないのです。
あなたにとって良いことでも、他人には悪いことかもしれません。
「どちらでもいい」と考えれば、生きるのが楽になりますよね。
おのが身の おのが心に 適わぬを 思わばものを 思い知りなん
<意訳>自分は能力がないと思ってはいけません。誰もが何かしらの才能をもっているのです。しかしそれを活かそうと努力しないでいると、つまらない人生を送るハメになります。
自分のやりたいことをすれば人生は楽しいはずです。
もし人生が「つまらない…」と感じているのであれば、そろそろ生き方を変えるべきタイミングなのかもしれません。
そのままに 生まれながらの 心こそ 願わずとても 仏なるべし
<意訳>自分がやりたいことをやっている人は、悔いのない人生が送れます。主体的な生き方をしている人は「仏」になれるのです。
他人が敷いたレールの上を歩いているだけの人には主体性がありません。
そのような人は不幸せな人生になるので注意しましょう。
もとの身は もとの所へ 帰るべし いらぬ仏を 訪ねばしすな
<意訳>悩んだ時は原点に返りましょう。命の原点は心臓である。心臓は何も考えずに鼓動し続けています。そのような大きな働きをしている生命には仏が宿っているのです。
自分の考えで心臓を止めることはできませんよね。
逆に、頭で考えて心臓を動かすこともできませんよね。
これこそが生命であり大宇宙(仏)なのです。
夜もすがら 仏の道を たずぬれば わが心にぞ たずね入りぬる
<意訳>どうすれば自分や周りが楽しく幸せに生きられるのか。仏の道を探っていると自分自身の心が重要なのだと気づく。
周りと競争することは重要ではありません。
誰にも惑わされず、煩わされず、穏やかな心さえ持っていれば平穏無事に生きられるのです。
本来も なきいにしえの 我れなれば 死にゆくかたも なにもかもなし
<意訳>自分がこの世に生まれるまでは何もなかった。自分が死んだ後も何もない。
元々存在しなかった人間が、自然を感じ、空気を吸って生きていることに幸せを感じるべきなのです。
そう考えると、何もかも幸せに感じられるので、怒りの感情はどこかに行ってしまうのです。
あだにのみ 人をつらしと 何か思う 心よ我れを 憂きものと知れ
<意訳>人の悪いところを指摘してばかりの人は思いやりがない。そのような人は自分を最低の人間だと知るべきだ。
人はそれぞれしがらみを抱えて生きています。
もし自分に都合の悪い動きや返答が返ってきたとしても、相手にも事情があるはずなので、怒る必要などないのです。
悪くとも 善くともいかで いいはてん 時々変わる 人の心を
<意訳>「あいつは悪いヤツ」だとか、「あいつは良いヤツだ」という評判が一生続くことはありません。人の評価はその時々で変わるのです。
周りの評価を気にする必要などありません。
清く正しく、精一杯生きているのであれば、それだけで十分なのです。
極楽が ありと聞けど 往きて見ず 何方を指して 浄土とはいう
<意訳>極楽があると聞くが、実際にそこへ行って目で見た人はいない。ただ幻を追い求めているだけなのかもしれない。
不安な世の中なので、救いを求めたい気持ちは誰にでもなると思います。
そんな時は、自分の鼻から出入りしている呼吸を感じましょう。
呼吸は幻でなく、リアルでポジティブな極楽なのです。
いたずらに 暮らすその身は 愚かさよ 芸のひとつも たしなみはせで
<意訳>金を儲けた人は、次に金を手放す羽目になる。うまく手放すためには、坐禅でもするがいい。合気道とか弓道とか、何か芸事を嗜むことだ。
どんなに大金持ちだったとしても、死ぬときにお金を持って行くことはできません。
がむしゃらに働いて大金を手に入れたとしても、気苦労が増えるだけです。
何が人生にとって大切なのか、今一度考え直しましょう。