我が心 そのまま仏 生き仏 波を離れて 水のあらばや
<意訳>その場その時に湧き上がってくる純粋な心が仏である。波が離れると水が引くように、日常の信仰心は消え去っていく。
仏様と聞くと、仏像をイメージしますが、それは偶像だと一休は語っています。
仏は自分の心の中にいるのです。
知らざるは 仏も人も同じこと さてこそ人の 迷いこそすれ
<意訳>人はうっかりすると働くだけで一生を終えてしまう。そして「悩むのはよそう」と言いながら、常に悩み続けて一生を終える。
人の一生は有限です。
「どうやって生きようか?」と悩み続けていると、そのうち一生は終わってしまうのです。
なので、できるだけ早く行動することをお勧めします。
有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け
<意訳>人が生まれてから死ぬまでは、人生の一休みと同じぐらい短いものだ。そのような短い時間なので、雨が降ろうが風が吹こうが気にしないで生きるべきである。
「有漏路より、無漏路」とは「生まれてから、死ぬまで」という意味です。
有意義に生きるためには、余計な心配事を減らしたり、争いごとを避けることが大切です。
「暑い」時には文句をいうのではなくプールへ出かけて、「寒い」と小言を言わずに喜んでスキーへ出掛けるような自然体でいい気がします。
降らば降れ 降らずば降らず 降らすとも 濡れて行くべき 袖ならばこそ
<意訳>雨が降るなら降ればいい。降らないなら降らないでも良い。降っても降らなくてもどっちでも良い。恋しい人ができた私の袖はいつも涙で濡れているからね。
これは「どちらでもいい」という考え方を名言にしています。
まさに禅っぽい名言ですよね。
ぜひ禅僧の名言集もご覧ください。
国いずく 里はいかにと 人間わば 本来無為の ものと答えよ
<意訳>出身地や両親の名前など無意味である。あなたの生命を作ったのは大宇宙の働きだからです。
一休から言わせれば、理屈など人間が考えた雑念でしかありません。
人間の働きは、全て大宇宙(仏)が描いたものなのです。
木の阿弥陀 金の弥勒に 石地蔵 尊み拝む 人ぞおかしき
<意訳>人間は、木で作った阿弥陀様や金で作った弥勒菩薩、石で作ったお地蔵さんに手を合わせて拝んでいる。それは決して悪いことではないが、禅的に言えばおかしなことだ。
禅における仏とは、自分の中にいる大自然の命です。
自分がこの世に生まれてから、今日まで生きさせてくれた大自然の生命そのものなのです。
よって、決して人間が作った偶像など無意味なのです。
貴賤智愚 僧俗男女 別なれど 菩薩の道は ひとつ事なり
<意訳>貴い人と貧しい人、頭のいい人と悪い人、僧侶と属人、男と女…。みんな別々に見えるけど、自然の命の尊さを求める「菩提の道」、つまり悟りへの道はたった一つなのである。
人それぞれの個性はありますが、行き着く先は一つだけなのです。
まずは呼吸できる有り難さに感謝して、大宇宙を自覚することから始めていきましょう。
皆人の 涅槃常楽(ねはんじょうらく) 知らずして 生死無常(しょうじむしょう)を 嘆くあわれさ
<意訳>静かに坐禅を組めば、悩みや不安が消えて穏やかで満足した生活ができる。しかし不満を抱えて、ため息ばかりついていると、満足度の低い人生になるので悲しいことだ。
不満を言い出せばキリがありません。
今呼吸ができて、自分の意志で考えることができれば、それで十分だと思いましょう。
九年まで 坐禅するこそ 地獄なれ 虚空の土と なれるその身を
<意訳>9年間も坐禅を組んでも、ただ足が痛いだけで、地獄にいるようなものだ。誰でもいずれは大地の土になってしまうのだ。
大切なことは坐禅を組むことではなく、今生きてるという事実なのだと深く悟ることです。
形式に捉われることはやめましょう。
我ありと 思う心を 捨てよただ 身を浮雲の 風に任せて
<意訳>自尊心やプライドの高さなどは捨てるべきだ。浮雲が風に吹かれるように、不平不満なくのどかに生きよう。
自己承認欲求やプライドなどは、生きる上で無駄なものです。
それを追い求めている現代社会(SNSのいいねやフォロワー集めなど)は、禅の精神から逸脱しています。
要するに自分が自分自身のことを認めないから、周りから認めてもらおうとしているのです。
このような生き方はとても不幸だと感じます。