木戸孝允の名言
木戸孝允(1833年~1877年)は別名「桂小五郎」と呼ばれており、西郷隆盛や大久保利通と薩長同盟を締結した偉人です。
長州藩出身の人物ですが、同じく長州藩出身の吉田松陰から松下村塾で学び、攘夷運動を推進しました。
幕末を語る上で欠かせない人物が吉田松陰なので、ぜひ吉田松陰の名言もご覧ください。
西郷もまた大抵にせんか、予今自ら赴きて之を説諭すべし
この言葉は「西郷隆盛もいい加減にしないか。私は今自ら西郷のもとに赴いて、このことを説得したい」という意味です。
これは西南戦争が起きたことを知った木戸孝允が語った名言ですが、その時木戸孝允は病床にいました。
日本国内で戦争をしている場合ではないと考えた木戸孝允は、西郷隆盛を説得したいと思ったのです。
高杉晋作の名言
高杉晋作(1839年~1867年)も木戸孝允と同じく長州藩出身で、吉田松陰の松下村塾で学びました。
「戦うカリスマ」と呼ばれており、奇兵隊を創設したことでも有名です。
とても頭が良い人物でしたが、頑固な人物として知られていました。
男児事を成す豈時なからんや縦令市井の侠客と呼ばれても一片の素心未だ敢て差わず
この言葉は「男児が事を成すには時がある。たとえ市井の侠客と呼ばれても、胸底にある一片の真心は変わっていない。」という意味です。
高杉晋作は幕府を相手に長州戦争を起こして勝利するという功績を残しました。
たった一つの藩がお上である幕府に勝利した事実は、その後の日本を占う上で非常に重要なターニングポイントになったのです。
弔わる人に入るべき身なりしに、弔う人となるぞはずかし
この言葉は「本当ならば私も弔われる身であったはずなのに、弔う側になるとは何と恥ずかしいことだろう。」という意味です。
これは志半ばで死んだ仲間の墓石の前で語った名言です。
高杉晋作は「国のためならば命を投げ出すことも厭わない」と考えていたので、命をかけて戦ったのに、生き残ってしまったことを恥じたのです。
己惚れて世の済みにけり歳の暮れ
この言葉は「たとえ自惚れと笑われても、吉田松陰先生や死んでいった同志の意思を継ぎ、短い生涯のうちに一つのことを成し遂げたのだ」という意味です。
自分を褒め称えるというよりは、1年に1度ぐらい自分の成したことに自惚れてもいいではないかという意味だと思います。
久坂玄瑞(くさか げんずい)の名言
久坂玄瑞(1840年~1864年)は長州萩藩出身の偉人ですが、吉田松陰の松下村塾で学びました。
藩を超えた尊王攘夷運動の中心人物として、江戸や京都で活動しますが、禁門の変に敗れて自害しました。
諸侯頼むに足らず、公家も頼むに足らず、草もうの糾合の外なし
この言葉は「大名や公家はあてにならない。本当に力を発揮するのは草の根の連中だけだ。」という意味です。
「草の根の連中」は、ちゃんとした地位についてない、いわゆる脱藩者がほとんどだったそうです。
イメージとしては市民運動ですが、そのような草の根が集まれば大きな力になると考えていたようです。