誰でもマザーテレサの名前は聞いたことがあるはずです。
しかしマザーテレサの実績や、人物像までは知らない人が多いのではないでしょうか。
そこで今回は、マザーテレサが残した名言集を解説していきたいと思います。
どの言葉も愛情に溢れた名言ばかりなので、プライベートはもちろんビジネスにも活用できるはずです。
ぜひ最後までご覧ください。
マザーテレサとは?
マザーテレサ(1997年に逝去)は旧ユーゴスラビア出身のキリスト教修道女です。
本名はアグネス・ボアジュと言いますが、「テレサ」という名前は修道名なので、いわゆる通称になります。
つまり「シスター・テレサ」ということになりますが、「マザー」と呼ばれたのには所以があります。
シスター・テレサは修道院で働いてるうち、世の中にはたくさん貧しい人がいることを知ったので、「貧しい人々と共に住み、その手助けに一生を捧げなければならない」と悟ったのです。
そして実際に貧しい地域に赴き修道会(神の愛の宣教者たち)を立ち上げていきます。
そこでまず行ったのが孤児の保護です。
貧しい地域にはたくさん孤児がいたので、マザーテレサは子供たちを保護し、生きるための基本的習慣を教え、アルファベットなども覚えさせました。
つまりたくさんの孤児の母親(マザー)になったのです。
そのような活動が評価され、マザーテレサは1979年にノーベル平和賞を受賞しました。
その実績からたくさんの組織や教育機関も大金を献金しましたが、それらのお金を決して自分のものとすることなく、文字通り全て貧しい人々のために使ったのです。
マザーテレサの活動は全て無報酬で行われていたので、食事はもちろん、水一杯だって貰うことがありませんでした。
そのような生き方を、マザーテレサは「すべてはイエスのため、貧しい人々への愛のため」と語っています。
マザーテレサの名言集まとめ
聖なる人になるということは、少数者の特権ではありません。
それはあなたとわたし、つまりみんなにとって義務なのです。
聖なる人というのはイエス・キリストのことで、少数者というのはキリスト教徒を指しています。
それらの人だけでなく、全人類が愛情を持つべきなのです。
聖なる者になろうという道を選んだ人は、多くのモノを捨てること、誘惑に遭うこと、自分と闘うこと、迫害に遭い、多くの犠牲を捧げることを覚悟しなければなりません。
現代人の生活は堕落しています。
つまり欲にまみれているのです。
そのような欲をすべて捨てる覚悟がなければ、聖なる人にはなれないのです。
死は悲しいことではありません。
私たちが悲しむべき唯一のことは、自分が聖なるものになっていないという事実だけです。
生があれば死もあるので、それは自然なことなのです。
そう考えた場合、生きている過程をどう過ごすかが重要になってくるでしょう。
時折嫌な思いを抱くことは、極めて自然なことです。
嫌なことを、イエスの愛のために我慢することは、時に極めて英雄的な事と考えられて良いのです。
誰だって人間なので、嫌な気持ちになったり、怒ったりすることはあるはずです。
しかしそれをグッと堪えて、相手に対して愛情を与えた人だけが聖なる人になれるのです。
政治家たちは謙虚にひざまずく時間をもっと増やさないといけません。
そうしたら、きっと彼らはより良い政治家になると、私は信じています。
多くの政治家は既得権益にまみれていたり、汚職に手を染めてしまいます。
そうなってしまうのには欲が関係しています。
その欲を捨てて、国民に対して愛情を与えることだけに専念すれば、つまり自己犠牲の精神を持てば、もっと良い国作りができるはずです。
「生活の中に色々なことが入り込むので祈れない」と言い訳する人たちがいます。
でもそんなことはあり得ません。
祈るために仕事を中断する必要はないのです。
仕事を祈りであるかのようにし続ければ良いのです。
これは目から鱗の名言だと思います。
キリスト教を知らない人にとって「祈り」とは、神に祈ることを指すと思いますよね。
しかし、仕事を続けることも神に対しての祈りの一種だと言うのです。
祈りは信仰を生み、信仰は愛を生み、愛は貧しい人々のための奉仕を生みます。
これがマザーテレサの提唱する循環システムなのでしょう。
このロジックを理解することが、マザーテレサの考え方を理解することに繋がっていきます。
私は祈ります。
キリストに祈るということは、キリストを愛することと同じなのです。
前述した名言の通り、祈ることからマザーテレサの活動は始まっていきます。
祈りは願い事ではありません。
祈りとは自分自身を神の御手の中に置き、そのなさるままにお任せし、私たちの心の深みに語りかけられる神の御声を聞くことなのです。
これは「祈り」の意味を解説した重要な名言なので、確実に押さえておきましょう。
「救われるためにどうしたらいいでしょうか?」と尋ねる人がいたら、私は「神様を愛することです。そして何よりもまず祈ることです。」と答えます。
私はキリスト教徒ではないので、この会話を聞いてもポカ~ンとしてしまいます。
しかしキリスト教の考え方には「救済」があるので、それを軸にして考えた場合、言っている意味が理解できてくるはずです。
詳しく知りたい人は下の名言集をご覧ください。
飽くことなく与え続けてください。
しかし残り物を与えないでください。
痛みを感じるまでに、自分が傷つくほどに与え尽くしてください。
与えることとは「奉仕する」ことです。
自己犠牲の精神で奉仕をするのです。
注がれる神の愛に心を開いてください。
神はあなた方を優しく愛してくださいます。
そして神から頂いたものは、錠をかけてしまい込んでおくのではなく、人々と分かち合ってください。
先ずは神に祈るのです。
そうすれば自然とやるべきことが見えてくるはずです。
それを心の中で考えるだけでなく、実行するように推奨している名言です。
貯めれば貯めるほど、与える機会を失ってしまいます。
持ち物が少ないほど、人々と分かち合うことも易しくなります。
これはなんとなく言っている意味が分かりますよね。
たくさんお金を持っていたり、資産がある人は、失うのが怖いのでそれらを守りたがります。
しかし失うものがない人は、失うこと自体に恐怖を感じないはずです。
与えることを学ばねばなりません。
でも与えることを義務と考えるのではなく、与えたいという願いにすることが大切です。
これはとても重要な名言だと思います。
義務感を持ってボランティアするのではなく、心の底から、ある意味衝動的に奉仕したいと思う気持ちが大切なのです。
自分のことへの思い煩いでいっぱいだと、他人のことを考える余裕がなくなってしまいます。
他人のことを考えるためには、まず自分の問題を解決しなければいけません。
そうしなければ他人のことを考える余裕など出てこないのです。
貧しい人々について語る事が一つの流行になっています。
しかし、残念なことに、貧しい人々と共に話すことを人々はあまり好みません。
これはドキッとさせられる名言ですよね。
多くの人は貧困について語ったり、どうすれば解決できるのかを考えていますが、実際に貧しい人達のところへ行って会話をしたり、実態を見聞きしようとまで思いません。
それが一般の人たちとマザーテレサの違いなのです。
貧しい人々の中でも最も貧しい人は、私たちにとってキリストご自身、人間の苦しみを背負ったキリストに他なりません。
マザーテレサは最も貧しい人を「イエス・キリスト」だと定義しているので、私たちの食べ物や衣服などは、何もかも貧しい人々と同じようにしなければいけないと言っています。
もしも月の世界に貧しい人々がいるとしたら、私たちはそこへも行きます。
これは冗談みたいな名言ですが、マザーテレサの覚悟が伝わってくる言葉ですよね。
世の中のどこに住んでいようとも、人間の欲望、すなわち求めるものが同じか、または極めて似たものなのです。
これは確かに真理だと思います。
人間である以上求めるものは一緒なので、そう考えた場合、全ての人間がマザーテレサと同じような行動をとる可能性だってあるのです。
大切なことは、たくさんのことを成し遂げることでも、何もかもをすることでもありません。
大切なことは、いつでも何に対しても喜んでする気持ちがあるかどうかなのです。
確かにこの名言の通りだと思います。
自分が楽しいと感じたり、やりがいを感じることが大切だと思います。
貧困を作り出したのは神ではありません。
私たちこそ、その張本人なのです。
神の前で私たちは皆、貧しい者なのです。
私たち人間が貧富の格差を生み出しているので、罪を背負っているのです。
先ほど「貧しい者=キリスト」だとお伝えしましたよね。
つまり、全人類は罪を背負っている貧しい人なのです。
富める国の中で中絶を合法化するところがあれば、その国は間違いなく世界で最も貧困な国です。
マザーテレサは「生命は生存するために生まれるのであって、抹殺されるために生まれるのではない」と言っています。
私たちはイエスにしているかのように貧しい人々に仕えてはいけません。
彼らはイエスその方だから仕えるのです。
「貧しい人=キリスト」なので、マザーテレサにとって奉仕することは当たり前なのです。
貧しい人々は私たちのお情けを必要としていません。
彼らが求めているのは、私たちの愛と優しさなのです。
貧しい人々が求めているのは、憐みではなく愛情です。
つまり人間としての尊厳に敬意を払うことなのです。
貧しい人々を愛すること、その人々に奉仕するということは、私たちの残り物、または私たちの嫌いなものを彼らに与えることとは違います。
流行遅れになった、又は飽きてしまったが故に、自分では着なくなった衣服を与えることでもないのです。
「リサイクル」という考え方が、まさにいらないものを人にあげるという考え方ですよね。
それ自体は経済循環システムなので否定する必要ありませんが、「貧しい人への奉仕」という観点では間違っているということです。
善い行いは、一つ一つ繋がって愛の鎖を作っていきます。
マザーテレサの言う通り、善い行いが連鎖していけば、世の中はもっと良くなるはずです。
病気にはそれぞれ特効薬があります。
ところが、愛されないが故の淋しさだけは薬で癒されません。
これは非常に奥深い名言だと思います。
絶対に医学では治せない病気があるということですね。
私たちは、愛し、愛されるために神に創られました。
この言葉は、まさにキリスト教の根本思想を体現しているような名言だと思います。
自分が犠牲になり、自分が傷つくまで人を愛することを恐れてはなりません。
キリスト教には自己犠牲の精神があります。
「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい。」ということです。
神が私に望んでいらっしゃるのは、事業を成功させることではなく、忠実に生きることなのです。
大切なのは結果ではなく、人間としての忠実さ(生き方)なのです。
愛はキリストご自身がご自分の死で示してくださったように、この世で最も偉大な贈り物なのです。
キリストは全人類の罪を背負って十字架へ磔にされられました。
それこそが自己犠牲の愛情なのです。
平和も戦争も家庭から始まります。
もし本当に世界平和を願っているなら、まず自分の家族が相互に愛し合うことから始めていきましょう。
これはとても納得感のある名言ですよね。
自分の家庭が平和でなければ、世界平和などを考える余裕がありません。
逆に、全ての家庭が平和なら、全世界も平和になるはずです。
私たちは雲の上と言いましょうか、非現実の世界に住んでいてはなりません。
私たちの周りの人々を理解するように、懸命に努力するべきなのです。
相手を理解するためには、まず自分自身を理解しなければいけません。
自分のことすら理解できていない人が、他人のことを理解できるはずないからです。
愛はどこから始まるのでしょうか?
私たちの家族からです。
いつ始まるのでしょうか?
共に祈る時に始まります。
祈りとは「自分自身を神の御手の中に置き、そのなさるままにお任せし、私たちの心の深みに語りかけられる神の御声を聞くこと」だと解説しましたよね。
つまり、家族全員で祈れば、家族全員でビジョンが共有されるので、歩く方向が一緒になります。
これが愛の始まりだと言っているのです。
みんな私たちの兄妹姉妹であることを忘れないでいましょう。
兄妹姉妹は身内なので、色々と気遣いますよね。
たとえ他人であっても兄妹姉妹だと思えば、少し接し方が変わってくるはずです。
先ほどお伝えしたように、愛は家族から始まっていきます。
人類みんな家族だと思えば、世界平和を実現するのは容易いと思います。
男女を問わず、自分のお金をいかに貯めるかで悩んでいる人々は、真の貧者です。
マザーテレサは、自分の手元に少しでもお金があるなら、それをもっと貧しい人に与えたり、分け与えれば「理想的な世界になる」と言っています。
そのような人が真の意味で「豊かな人」なのです。
どこの家族の中にも、どの人間の集まりの中にも、誰か苦しんでいる人がいます。
苦しんでいる人とは、「愛情に飢えてる人」という意味です。
これはリーダーを目指す人が心得ておくべき名言だと思います。
私が思うに、この世で一番大きな苦しみは、一人ぼっちで誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。
温かい人間同士の繋がりがない人は、自分の存在理由が分からなくなってしまいます。
つまり他人からの愛が感じられないのです。
他人からの愛は、自分から欲しがる類のモノではありません。
なので、自分一人で解決することができない苦しみになってしまうのです。
私たちは皆、呼ばれたところで神に仕える義務を負っています。
この名言は「天命」について語った言葉です。
天職という言葉もありますが、この言葉には「与えられた仕事を全うすることで、他人に貢献する」という意味が込められています。
それはつまり、貧しい人の役に立つことに繋がっていくのです。
貧しい人たちはもう十分に悲しみを味わっているのだから、その人々をいっそう惨めな思いにひたらせることがないように、喜びをもって接しなさい。
明るくポジティブな人は、接していて気持ちが良いですよね。
プライベートや仕事でも、そのような人を目指した方が良いと思います。
まとめ
ここまでマザーテレサの名言集を解説してきました。
一通り読んだ人はマザーテレサの価値観や、考え方が理解できたはずです。
マザーテレサはただ考えるだけでなく、実際に行動した偉人なので、見習うべき部分が多いですよね。
世の中には様々な偉人がいるので、他の名言集もぜひご覧ください。