月給のために仕事をするのじゃない。
仕事の時は全力で、仕事になりきること。
そうすれば、こんなに働いたのに、こんな月給じゃ馬鹿らしいという不平が起こるはずもない。
お金のために仕事をするのは、悲しいことだと思います。
ただ自分の時間を切り売りしてるだけなので、それで人生が豊かになるとは思えません。
働く場合には「なぜ働くのか?」という仕事の本質を考えましょう。
自己という話なら現代人は得意である。
何かにつけて自己を振り回したがる。
しかしそのいわゆる自己はどうも本物の自己ではない。
「自分とは何なのか?」
これは哲学的な問いですが、その答えについて考えてみると、自分という人間は全て周りから形作られたものだと気付くはずです。
氏名、年齢、職業、年収、出身地…
どれも自分が主体的に付与したものではありませんよね。
つまりどれも本物の自己ではないのです。
そう考えた場合、本物の自己とは何なのでしょうか?
それは「自分の意思」です。
これだけが本物の自己なので、禅では主体的に生きることを大切にしているのです。
これと同じような考えを持っていた哲学者がいます。
それはルネ・デカルトです。
デカルトの名言は下の記事をご覧ください。
勝ちだ、負けだ、悟りだ、迷いだ、そんなことが何か。
迷わん以前、勝ち負け以前のものをつかめ、そこに本当の自己がある。
勝ち負けとは結果のことです。
何事も結果が重要なのでなく、過程が重要なのです。
私は覚えるのが嫌いじゃ。
人の言うたことをいちいちそのまま暗記する。
ばかばかしい、骨が折れるだけじゃ。
そんな事を覚えるより、自分の勝手なことを喋っておる方が良い。
自分勝手な言葉に聞こえますが、人の顔色を伺ったり、人の意見を加味しながら生きる窮屈さを否定した名言なのです。
人間はもっと自由に生きられます。
どのように生きるかは自分次第なのです。
全部のことを考えねばならぬ。
自分のことばかり考えておったら、それはつまらぬ男である。
「全部」とは社会全体のことを意味しています。
自分だけ出世しようと考えたり、自分だけ美味いものを食べようと思ってはいけないのです。
無心ということは、つまり己を抜きにすることであり、己を抜きにすれば人生全ての事で解決しない問題はない。
これは博愛主義のように聞こえますが、もう少し深い概念だと思います。
自分には全くメリットがなかったとしても、社会全体に奉仕すれば、全ての問題は解決すると言っているのです。
個々人が自分の利益だけを追求するから、色々な諸問題が発生するのです。
根本をひっくり返すことじゃ。
ひっくり返して、己のあることを忘れることである。
これは目から鱗の名言だと思います。
主体性を求め続けると、いづれ自己の利益を追求するようになります。
そのような状態をリセットするために重要な考え方だと思います。
つまり「自」の反対は「公」ですが、「公=自」という感覚に落とし込むのです。
透明になることである。
自己が透明にならなければいかん。
こいつをどんな美しい色にでも染めたらいかん。
社会には既得権益があったり、利害関係が複雑に絡み合っています。
そのような争いに巻き込まれるのではなく、フラットな心でいるべきだと言っているのです。
「用心」というのは、火の用心とか、盗人の用心とか、色々用心しなければいけないことがあるが、一番難しいのは自分の用心である。
世の中には誘惑が多いので、それに負けないようにしましょう。
我々はせっかく光っている鏡を持ちながら、自分の妄想がそこにモヤモヤしているから曇って見えるのである。
この名言が伝えたいのは「邪念を捨てろ」ということだと思います。
自分本来の姿を見るためには、損得感情を捨てて、ありのままの気持ちで、素直に生きることが大切です。