相手よりも鈍い感じでいる。
これは社交のコツであるし、人へのいたわりともなる。
なんでもかんでも敏感で鋭くある必要などありません。
相手の行為や考えを見抜いても、知らんぷりできる偽りの鈍さも必要なのです。
それは相手へのいたわりや思いやりにもなるのです。
そして相手を好意的に捉えて、大切に扱いましょう。
そうすれば相手もあなたを同じように扱ってくれます。
世間にありながら、世間を超えて生きよ。
世間とは「世の中」を意味しています。
この名言が意味するのは、自分の信念を持つということです。
世の中の情動に振り回されず、確固たる自分を持って強く生きることを推奨しているのです。
自分の意見を持つためには、自ら動いて自分の考えを掘り下げ、言葉にしなければならない。
近年はインターネットが発達したおかげで、大量の情報(知識)が手に入るようになりました。
それで博識になったかのように勘違いしている人を見かけますが、中身が伴っていないので、それでは薄っぺらいのです。
自分の実体験や生きた言葉を話せないので、ちょっと突っ込まれた途端に無口になってしまいます。
それではまったく意味がないのです。
道徳的な振る舞いをする人は、本当に道徳的であるとは限らない。
一見すると道徳的に見える人でも、ただ道徳に服従しているだけかもしれません。
何も考えず、世間一般で「常識」と言われていることに従っているだけの人は、決して本物ではありません。
批判という風が吹き込まない閉鎖的な所には、必ず腐敗や堕落が生まれ、大きくなっていく。
どんな組織であっても、反対意見は重要だと思います。
またそれを言える環境があることも大切です。
これを現代風に言い直すと「多様性」となるのです。
考え方の問題で組織に馴染めなくても、自分だけがおかしいと思う必要などない。
組織というのは、良くも悪くも閉鎖的なものです。
つまり、その中の常識を正義とし、その組織が大切にする考え方を浸透させていきます。
そこから外れたということは「組織の狭い世界を超えた広い次元に達した」ということになるのです。
狡猾とされている狐よりも、はるかに狡猾な人間がいる。
高い場所にある葡萄が取れなかった狐は「あんなのはどうせすっぱい葡萄に決まっているさ」という捨て台詞を残します。
これは有名なイソップ寓話ですよね。
しかし、自分の手が届き、たっぷりたくさんの甘い葡萄が取れた人間は「とてもじゃないが酸っぱくて食べれる葡萄ではない」と言いふらすのです。
世の中には、いかにもまともそうに見えるニセ教師がたくさんいる。
- こうすれば損をしない
- 人付き合いはこうした方がいい
- 人脈はこうやって広げろ
ニセ教師が教えるものは、自分よがりの価値判断です。
本当に重要な人間性についてや、他人との付き合い方についての部分が抜けているのです。
自分を幸せにするやり方ではなく、どうすれば他人を幸せにできるか考えましょう。
一度口にしたことを断固として行うのは、一種の頑固ではないか。
信念を持つことは良いことです。
何かを成し遂げることも良いことです。
しかし感情的になってしまうのはよくありません。
行為をするかどうかは、理性的な観点から見極める必要があるのです。
あなたが誰かを騙したりすると、その人は悲しむ。
騙されたことで何か損を受けたから、その人は悲しんでいるのではない。
その人がもうあなたを信じ続けられないということが、その人を深く悲しませているのだ。
軽い気持ちで嘘をついたり、人を騙したとしても、その相手は大きく傷つくのです。
それは関係性が深ければ深いほど大怪我になってしまう傾向があります。
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