国や社会の助けがあって初めて、人間は自分の利益を求めることができ、安全に生きることができるのです。
人間は自分一人で生きていくことができません。
毎日美味しい食事を食べたり、快適な家に住んだり、安全な医療が提供されているのも、様々な人々に支えられ、国の支援制度に助けられているからですよね。
そのような保証があってこそ、自らの利益を追求することができるのです。
そう考えた場合、富を持てば持つほど社会の助けを得ていることが理解できるはずです。
「義理合一」の信念を確立するように努めなければなりません。
義理合一とは、道徳心と合理精神とが一致している状態を指していて、孔子や孟子の思想としても知られています。
この精神がなければ「自分さえ儲かればいい」という発想になってしまうので、そのような人ばかりになると「社会全体に悪影響を及ぼす」と渋沢栄一は警鐘を鳴らしています。
本当に資産運用がうまい人は、「よく集める」と同時に「よく散じる」ようでなくてはなりません。
生活する上での支出はもちろんですが、ビジネスセンスのある人はたくさん儲けたお金をたくさん使うべきだと渋沢栄一は語っています。
ただし、この時のお金の使い方は「善用である」ということが前提なので、単なる浪費ではありません。
使い方には十分注意しましょう。
どのようなことであれ自分の仕事に深い「趣味」を持ち、力を注いで欲しいのです。
ただ命令された仕事をこなすだけでは、クリエイティブな成果など出せません。
仕事の中に趣き(趣味)を見いだせば、「こうしたら良いのでは?」とか「こう改善したい!」という意思が出てくるので、きっと仕事も楽しくなるはずです。
私は「客観的人生観」の側に立ち、「主観的人生観」を退けるのです。
- 客観的人生観:他人や社会がメインで自分のことはサブと考える
- 主観的人生観:自分がメインで他人や社会はサブと考える
渋沢栄一は、全ての人が「客観的人生観」を持てば、国家や社会はより良くなると考えているようです。
現実だけで十分なわけではなく、また理論だけでも立つことはできない。
理論と現実、学問と事業とがお互いに発達していかないと、相乗効果が生まれないと渋沢栄一は語っています。
世の中、だいたい自分の思い通りにはならないものです。
基本的に物事がスムーズに進むことは少ないので、問題が起こる前から、起きた時の心構えをしておいた方が無難です。
これを渋沢栄一は「普段の心掛け」と呼んでいます。
人は十分に修養すれば、1日1日と、過ちを少なくし、善いことをするようになり、聖人に近づいていくのです。
修養とは「身を修め、徳を養う」ことですが、具体的には「1人の人間が聖人や君主の領域にだんだん近づいていけるように努める」ことを指しています。
ちょっと宗教的な感じもしますが、渋沢栄一は「修養は人間の知性を高める」と語っています。
みんな「国を豊かに強くする」というより「自分が金持ちになる」ことの方が、主な目的になっています。
渋沢栄一は「自分さえ金持ちになれば満足だ」という利己主義に警鐘を鳴らしています。
まず社会に奉仕して、周りから感謝されれば、結果的に自分が金持ちになる、という資本主義のロジックを理解してない人が多いそうです。
競争というのが、成長や進歩の母であるのは事実です。
競争することは基本的に”善”だと言えます。
しかしズルしたり、他人を邪魔したりするのは「悪い競争」のやり方なので、道徳的にNGだと言えます。
これは人に害を与えるだけでなく、自分も損して、さらに国家の品位も台無しにするので、絶対にやめましょう!