
萩本欽一(はぎもときんいち)は「欽ちゃん」という愛称で親しまれていた人気芸人であり、昭和を代表するコメディアンの一人ですが、以下が略歴となります。
中学卒業後、浅草演芸劇場のデンスケ(故・大宮敏光)の門を叩いたが、「役者は当節、高校ぐらい出なくっちゃ。」と言われ、高校へ通う。1959年高校卒業後、浅草東洋劇場の軽演劇の一座に加わる。1961年同志とトリオを組んだり、自ら座長となり浅草新喜劇を作る。1966年に坂上二郎と「コント55号」を結成。
>>浅井企画のホームページより引用
坂上二郎と結成した「コント55号」の人気は凄まじく、60年代後半のテレビ番組を席巻していたそうです。
「視聴率100%男」という異名もあるほどなので、その人気ぶりが伺えますね。
「欽ちゃんの全日本仮装大賞」などの冠番組を数多く持っていたタレントなのですが、決して順風満帆に成功したというわけではなく、その芸能人生は苦労の連続だったそうです。
そこで今回は、萩本欽一の名言集をご紹介したいと思います。
成功者の人生経験から”成功哲学”を学びましょう!
萩本欽一の名言集まとめ
数えきれないほどの挫折や失敗を繰り返しながら、めげずに一生懸命になって人々に笑いを届けてきた。
萩本欽一はテレビの第一線で活躍してきましたが、その芸能人は決して順風満帆だったわけではありません。
欽ちゃんのファーストキャリアは、18歳の頃に浅草のストリップ劇場でコメディアンとしての修行を始めたことで、その約10年後に坂上二郎とコント55号を結成します。
そこから「多くの人たちに叱られ、励まされ、助けられたからこそ、これまでやってこれた」と語っています。
「良い子」だった僕は小学校で何度も級長に選ばれた。
でもリーダーシップはなく、気弱で優柔不断な男の子だった。
萩本欽一は自分のことを「気が小さかったから、とうとう大物にはなれなかった」と自己評価しています。
芸能界で大成功を収めた人物だと思いますが、かなりストイックな性格みたいで、自己評価は辛めですね。
僕の心境は「笑われる」から「笑わせる」に進化していった。
萩本欽一が小学校の授業で手を挙げて、元気よく「わかりません!」と答えると、クラス中からどっと笑いが起こったそうです。
根暗だった欽ちゃんは、この経験から人を笑わせる快感を覚えたそうです。
金持ちになるぞ。
でっかい家を建ててお母さんを喜ばせるんだ。
萩本欽一の家はカメラの製造をやっていましたが、その事業で失敗して、幼い頃から借金取りに追われる生活を送っていたそうです。
最終的には家族が解散するところまで追い詰められますが、そのような逆境を経験した萩本欽一は「どうすれば金持ちになれるのか?」というのを常に考えていたそうです。
そんな中、世の中で「お金持ち」と言われている人たちの家を見て歩いたところ、テレビで活躍している芸能人の家が大きいことに気がつきます。
なので「喜劇役者、お笑い芸人、コメディアンになる」というアイデアを思いつき、コメディアンとしての道を進んでいったそうです。
本当の東大には入れなかったけど、僕は浅草の東大で学び始めたんだ。
萩本欽一の父親はいつも「東京大学へ進学しなさい」と言っていたそうですが、頭が良くなかったので勉強は途中で諦めたそうです。
その代わり、浅草にある東洋劇場(フランス座)というストリップ劇場でコメディアンとしての腕を磨き始めました。
ここは長門勇、渥美清、佐山俊二、東八郎などの有名コメディアンが巣立っていった場所なので、「ストリップ界の東京大学」と呼ばれていたそうです。
僕はダメな男なんだ、才能がないんだ、優れた人はもちろん、普通の人より一歩、いや二歩下がったところから人一倍、努力しなきゃいけないんだ。
萩本欽一がコメディアンとして修行していた19歳の頃、自分のことをこのように自己評価していたそうです。
実際周りからの評価は高くなかったので、そう思わざるを得なかったそうです。
誰でも最初は苦労するということですね。
朝8時に劇場に来て、誰もいない暗い舞台で1時間の芝居を一人で演じる。
毎朝休まずに続けた。
萩本欽一は「とにかく人よりもたくさん努力しなければ結果が出せない」と考えていたそうですが、その姿を毎日見ていた掃除のおばちゃんは「あんたは偉くなるよ」と認めてくれたそうです。
結果的に掃除のおばちゃんが支配人に口コミをしてくれて、陰の努力を認めた支配人が月給を2倍にしてくれたそうです。
僕と二郎さんの出会いは最悪だった。
萩本欽一と坂上二郎はコント55号を結成しますが、その出会いはフランス座の舞台だったそうです。
ちなみに一番最初は「二郎さんとコンビで舞台に立つのは絶対に嫌だな」という印象を持ったそうですが、人生は不思議なものですよね。
喜劇をやる劇団を旗揚げして座長になるのが夢だ。
周りの劇団員がどんどんテレビに出始めていた頃、萩本欽一は「僕はテレビ向きではない」と考えて、劇団を作ろうと画策し、実際に作ったのが「浅草新喜劇」という劇団でした。
その劇団を見に来たテレビディレクターから萩本欽一はスカウトされて、結果的にテレビデビューを果たしましたが、全くうまく立ち回ることができず、その後のオファーは来なかったそうです。
コント55号の芸名は松竹本社の偉い人が考えたらしい。
萩本欽一は今でも「コント55号の名付け親が誰かわからない」と語っています。
レジェンド芸人でもこのような事実があるというのは意外ですが、1964年に読売巨人軍の王貞治がシーズン55本のホームラン記録を打ち立てたので、それが由来なのでは?と考えているそうです。
王貞治の名言集は下の記事をご覧ください。
コントのスピードとテンポ、それに動きのキレが命だ。
坂上二郎と結成したコント55号の看板ネタが「机」です。
このネタを「幸運の女神」と感じたそうですが、その武器ができたおかげで、一気にブレイクしていったそうです。
いろんな人に「スター誕生の欽ちゃんはのびのびやっていたね」と言われるけど、本当はヤケになって好き勝手にやってただけ。
コント55号は1966年に結成しましたが、たった5年で活動休止となります。
その後に萩本欽一は1971年に始まったスター誕生の司会を任されるのですが、全くの素人だったので、「いつ番組を降ろされてもいい」という気持ちでやっていたそうです。
しかし結果的にスター誕生が大当たりして、司会業としての地位を確立するきっかけになりました。
「欽ちゃんのドンとやってみよう!」は1975年春にスタートすることが決まった。
この番組は「欽ちゃん」がタイトルについた初めての冠番組でしたが、日本でコメディアンの名前を冠した初めてのレギュラー番組でもあったそうです。
しかしこの裏番組には、ザ・ドリフターズの「8時だヨ!全員集合」があったので、戦々恐々として始めたのですが、結果的に視聴率30%を超えるような大人気番組となりました。
元ドリフターズだった志村けんの名言集もぜひご覧ください。
僕のトレードマーク、前を向いて横走りする「欽ちゃん走り」は東さんの真似。
東さんとは、浅草にある東洋劇場の先輩であり、萩本欽一が「師匠」と呼ぶ”東八郎”のことです。
若手だった頃の欽ちゃんは、東八郎の芸を見ながら、良い部分を盗んで自分の芸へと落とし込んでいったそうです。
僕はテレビ界で「視聴率100%男」の異名をもらった。
萩本欽一は「視聴率100%男」と呼ばれましたが、それは週に3本のレギュラー番組、つまり「欽ドン」「欽どこ」「週刊欽曜日」がどれも視聴率30%を超え、足し算すると100%に達していたからです。
この頃が「芸能界の頂点」だったと語っています。
登るまでの挑戦は苦しく楽しい。
でも到達すると、さっさと下山するしかない。
萩本欽一はテレビ業界の頂点を極めたので、目標を見失ってしまいました。
なので、絶頂期だった1985年に全てのテレビのレギュラー番組を降板しますが、唯一1つだけ「欽ちゃんの仮装大賞」だけはプロデューサーから説得されて降板できなかったそうです。
2人だけで食事をしたのはたった1回。
坂上二郎と結成したコント55号ですが、意外なことに2人で食事へ行ったり出掛けることは一切ありませんでした。
コンビがあまり長い時間一緒にいると、お互いの粗が気になって、どんどん仲が悪くなってしまうと考えていたので、2人の総意として「プライベートでは一緒にいない」と決めていたそうです。
教養は簡単に自分のものになるわけではないけれど、「挑戦してみよう」と考えた。
萩本欽一は73歳で駒澤大学の仏教学部へ入学します。
新しい教養を身につければ、それが新しいものを創り出してくれると考えたそうです。
今のテレビ番組のキーワードは「知って得する」「知識が増える」。
今のテレビ番組は、学びがキーワードになっているそうです。
ビジネスもそうですが、環境やニーズに合わせて、提供するサービスも変化するということですね。
新しい、面白いこと。
その代表が野球。
萩本欽一は2005年に社会人野球の新球団である「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し、日本野球連盟にも加盟承認されました。
「新しいことに挑戦する」という夢を実現するために作った野球団みたいですが、いくつになっても夢を追いかける姿勢は素敵だと思います。
元メジャーリーガーであり、プロ野球選手だったイチローの名言集もご覧ください。