
「武士道」という言葉は知っていても、その精神論まで知っている人は少ないはずです。
武士道精神は「日本の心」と言える大切な考え方なので、今回は武士道精神が理解できる名言をご紹介していきたいと思います。
新渡戸稲造が残した名著「武士道」から抜粋した言葉なので、ぜひ参考にしてください。
武士道の名言集まとめ
武士道は、日本の象徴である桜花と同じように、日本の国土に咲く固有の華である。
桜は日本民族の花ですよね。
とても美しいだけでなく、儚い一面もあるので、それが「武士道精神」と似ていると言うのです。
武士道とは、日本文化に根付いた精神であり心なのです。
武士道とは、すなわち武士階級がその職業、及び日常生活において守るべき道を意味する。
一言でいえば武士の掟、すなわち「高き身分の者に伴う義務」のことである。
武士は「士農工商」で最も高い身分になります。
そのような高い身分の人が背負うべき義務であり責任が「武士道」なのです。
武士道とは、武士の守るべき掟として求められ、あるいは教育された道徳的原理である。
この名言にある「道徳的原理」というのは、武士道を理解する上で重要なポイントとなります。
武士道は成文法ではなく、精神論に近いものなのですが、その掟は絶対的な力を持っていたのです。
神道の自然崇拝は、我々に心の底から国土をしたわせ、祖先崇拝はそれを辿っていくことで皇室を国民全体の祖としたのである。
日本には天皇制が存在しますよね。
天照大御神を起源とした天皇制は、世界最古の家系図と言われており、現代でも大きな力を有しています。
新渡戸稲造曰く、「私たちにとっての天皇とは、法治国家の長、あるいは文化国家の単なる保護者ではなく、それ以上の存在となる」と言うのです。
つまり先祖崇拝は、それを辿っていくことで皇室を日本国民全体の祖先としたのです。
神道の教義には、我が民族の感情面での二つの大きな特徴が含まれている。
愛国心と忠誠心である。
武士道を語る上で「神道」は欠かせないキーワードだと思います。
神道とは日本民族の”神観念”に基づく考え方で、日本人の伝統的な宗教的実践(神前式など)と、これを支えている生活態度(初詣や七五三など)および理念のことを指します。
つまり八百万の神々を讃えて、先祖に敬意を払う日本特有の感覚なのです。
この神道によって、武士道の中に主君への忠誠と愛国心が徹底的に吹き込まれたのです。
そういった意味では宗教と変わりないはずです。
武士道は、道徳的な協議に関しては孔子の教えが最も豊かな源泉となった。
孔子といえば中国の儒教家ですよね。
孔子の言葉をまとめた「論語」はとても有名なので、ビジネスパーソンであれば絶対に読んでおくべきだと思います。

日本経済の父と言われている「渋沢栄一」も、道徳心は論語から学んだと語っています。

孔子の考え方を理解したい人は、下の名言集もご覧ください。
知性は行動として現れる道徳的行為に従属するものだと考えられたのである。
「論破」という言葉が流行っていますよね。
これは豊富な知識を裏付けとした口喧嘩ですが、このような表面上の知識を武士道は嫌っていました。
武士道では”ただ知識が豊富”というだけでは冷笑の対象になってしまうのです。
それが行動に伴った時、初めて知識は活かされると考えられたのです。
これを武士道では「知行合一(ちこうごういつ)」と呼んでいます。
つまり武士道において重んじられるのは「知識」ではなく「行動」なのです。
「義」は武士の掟の中で最も厳格な徳目である。
サムライにとって卑劣なる行動、不正な振る舞いほど忌まわしいものはない。
武士道においての「義」とは「節義」を指します。
節義とは、人として正しい道を貫き通すことを言いますが、その道は「限りなく狭い」と言われています。
だからこそ「義こそが人の道」と言われたり、「節義がなければ武士ではない」と言われたのです。
私たちは親や目上の者、もしくは目下の者、あるいは社会一般などに負う義理ついて話すときは、義理はいつの間にか義務のこととなった。
先程触れた「義」を「義理」や「義務」と解釈する人がいます。
しかしそれでは「愛」を上回ることができないのです。
愛情は全てにおいて優先されるので、それと対等な論理を展開するためには「節義」という考え方が正しいでしょう。
つまり義理は愛情に包括されていますが、節義は「人として正しい道を貫き通すこと」なので、全く別次元で展開できるのです。
愛情について語っている宗教といえばキリスト教ですよね。
もし良ければイエス・キリストの名言集もご覧ください。
勇気は義のために行われるものでなければ、徳の中に数えられる価値はないとされた。
武士道を語る上で「勇」というキーワードも欠かせません。
勇気を履き違えている人は、あらゆる危険を犯して死の淵に挑むことを「勇気」だと勘違いしていますが、それは単なる犬死(いぬじに)と呼ばれています。
武士道において死ぬこととは「死に値すること」だけなので、生きるべき時は生きて、死ぬべき時のみに死ぬことなのです。
よって、決して命を無駄にすることではないので注意しましょう。
もし小さな子供が何かの痛みで泣けば、母親は「これしきの痛みで泣くとは、なんという臆病者でしょう。戦で腕を切り落とされたらどうするのですか。切腹を命じられたらどうするのですか。」と励ますのが常であった。
これはとてもセンセーショナルな一文ですよね。
母親が我が子に伝える言葉としてはお互い辛すぎる気がしますが、武士として生まれたからには、このような宿命があるのでしょう。
武士として生まれたからには、腕を切り落とされたり、自ら切腹する可能性があるという含みを持った言葉なので、時代背景を含めた名言だと思います。
仁は常に至高の徳として、人間の魂が持つあらゆる性質の中で、最も気高きものとして認められてきた。
仁は「王者の徳」と言われており、慈悲の心を意味しています。
武士道においては「義」や「勇」なども重要と言われますが、それらが複合的に絡まって、最終的には「仁」へ到達すると言われています。
なぜかといえば、仁は「慈悲の心」を指すので、力のあるものだけが持てる感覚だからです。
ここが仁のポイントとなります。
つまり、武士の慈悲には受け手に対しての利益や損害(生殺与奪)をもたらす力が含まれているのです。
上杉謙信が武田信玄に塩(利益)を送ったことも仁であり、罪を犯した人に切腹を命じることも仁なのです。
日本人であれば「武士の情け」という言葉を聞いたことがありますよね。
これは正義を前提とした適切な配慮を含んだ言葉ですが、これこそが「仁」を端的に言い表した言葉なのです。
戦国武将が好きな人は、下の名言集もご覧ください。
礼の最高形態は、ほとんど愛に近づく。
礼儀作法は社会人の常識ですよね。
それは武士も同じでした。
人に挨拶する際のお辞儀の仕方、歩き方、座り方、食事の作法まで、様々な礼儀を学んだのです。
そのような礼儀作法の精神的意義は何なのでしょうか?
それはつまり愛情ということになります。
礼儀作法を守るのは自分の為でもありますが、相手を尊重するということが主題にあります。
そう考えた場合、礼とは相手に対する愛情になるのです。
武士は支配階級にあるだけに、誠であるかどうかの基準を商人や農民よりも厳しく求められた。
武士がいた時代は、嘘をついたりごまかしたりすることは「卑怯者」とみなされていました。
「武士に二言はない」という言葉を聞いたことがありますよね。
本物の武士は「誠」を命よりも重く見ていたので、誓いを立てるだけでも名誉を傷つけることだと考えていました。
つまり証文(契約書のようなもの)を書くような野暮な真似はしなかったのです。
武士の約束は証文なしに決められ、その約束通りに実行されていきました。
むしろ証文を書くことは恥(信頼されていない証拠)であり、面子が汚されることだと考えられていたのです。
名誉という感覚には、人格の尊厳と明白なる価値の自覚が含まれている。
武士にとって名誉は、命以上に大切なものです。
幼い頃からその感覚を刷り込まれ、人一倍羞恥心を持っているのです。
「名を汚すな」「恥ずかしくはないのか」「笑われるぞ」
このような言葉が羞恥心を刺激し、徳へと導いてくれるのです。
武士道においては、一族や家族の利害は一体不可分である。
武士道はこの利害を愛情、すなわち本能に基づく抵抗できない愛の絆で結びつけた。
個人を尊重する個人主義と、武士道における考え方は相反しています。
武士道では個人よりも公を尊重するので、個人の尊厳は二の次になるのです。
武士道は私たちの良心が主君の奴隷になることなど要求しなかった。
武士は主君に忠誠を誓いますよね。
しかしそれは無条件に奴隷となることではありません。
あくまでも一個人としての意見は保ちつつ、もし主君の意見が間違っていると感じれば、あらゆる手段を尽くして主君の過ちを正そうと試みるのです。
もし仮にそれがうまくいかなかった場合、武士は自らの血をもって自分の誠実さを示し、主君に訴えかけるのです。
武士の教育において第一に重んじられたのは、品格の形成であった。
それに対して思慮、知識、雄弁などの知的才能はそれほど重要視されなかった。
知識は教養人として必要不可欠ですが、武士道における教育の場合、知識は付随的なものとみなされていたのです。
武士道の枠組みを支える三つの柱は「智」「仁」「勇」とされた。
「仁」と「勇」は前述した通りですが、「智」とは知恵を意味しています。
知恵と知識は違うものなので、ここで理解しておきましょう。
- 知恵:豊富な知識をもとに、行動へ結びつけることができるもの。
- 知識:博識であり、知識が豊富なこと。
つまり知識はただの頭でっかちで、知恵は行動に結びつくのです。
サムライの本質は「行動する人」なので、知識が豊富よりも、知恵のあることが求められたのです。
武士の子は経済のこととは全く無縁に育てられた。
経済のことを口にすることは下品とされ、金銭の価値を知らないことはむしろ育ちの良い証拠だった。
日本人のファイナンシャルリテラシーが低いのは、この辺りに原因があるのかもしれませんね。
武士は金銭そのものを忌み嫌います。
お金や命を惜しむ者は非難の的となり、それらを惜しみなく投げ出すものこそ賞賛されたのです。
なぜかといえば「富は知恵を妨げる」と考えられていたので、行動力が鈍くなってしまう原因と考えられていたのです。
どんな仕事に対しても報酬を払う今日のやり方は、武士道の信奉者の間では広まらなかった。
なぜなら、武士道は無報酬、無償であるところに仕事の価値があると信じていたからだ。
前述したとおり、武士道では金銭そのものを忌み嫌っています。
その上で、精神的な価値に関わる仕事は、金銭で支払われるべきものではないと考えられていたのです。
つまり金銭での支払いが発生する仕事は定量的に計測できる仕事ばかりですが、武士が提供するものは「忠義」や「奉公」など、定量的に測れない精神的なものばかりです。
よって、名誉を大切にする武士道では、金銭を受け取らないことが美徳とされたのです。
武士道は、一方において不平不満を言わない忍耐と不屈の精神を養い、他方においては他者の楽しみや平穏を損なわないために、自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという礼を重んじた。
このストイックさこそが武士道ですよね。
自然に発生する感情(喜怒哀楽)を抑えようとすることは、苦しみを伴います。
サムライにとって「すぐに感情を表に出すのは男らしくない」とされたので、そこでは自然的な愛情(父親が息子を抱くなど)さえも抑制されたのです。
このように自分の欲望や邪念に打ち勝つことを「克己(こっき)」と呼びます。
武士道において名誉に関わる死は、多くの複雑な問題を解決する「鍵」として受け入れられた。
武士道といえば「腹切り(切腹)」が有名ですよね。
ある意味では単なる自殺ですが、侍にとっての切腹は一つの儀式でした。
切腹は、武士が自らの罪を償い、過ちを詫びて、不名誉をまぬがれ、朋友を救い、自身の誠を証明するための方法だったのです。
真のサムライにとって、いたずらに死に急いだり死を憧れることは、等しく卑怯とみなされた。
「武士道というは死ぬこととみつけたり」という葉隠れの言葉にある通り、死ぬことは侍にとって栄誉とされる側面がありました。
しかし、栄誉であると同時に、卑怯であるという側面もあるのです。
なので、武士道における生と死の決断は非常に重要なポイントになっていたのです。
武士道にとって刀は魂と武勇の象徴であった。
侍の子は幼い頃から刀を振ることを習います。
危険な武器を持つということが、サムライに自尊心と責任感を与えたのです。
それ故に、侍の刀はとても大切にされていました。
刀を跨いだだけでも、それは持ち主に対する侮辱とみなされたのです。
ビジネスの現場ではそれが名刺になっています。
名刺はその人の顔なので、丁寧に扱うことがビジネスマナーなのです。
武士道は適切正当な刀の使い方を重要視すると同時に、その誤った使用には厳しい非難を向け、それを嫌悪した。
使う必要もないのに刀を振り回す人は卑怯者や臆病者と言われていました。
武士道における究極の理想は平和なのです。
武士道精神を表す「大和魂」という言葉は、ついにこの島国の民族精神を象徴する言葉となったのだった。
武士道精神は、サムライだけのものではなく、あらゆる社会階級に行き渡りました。
その結果、日本人全体に道徳基準を提供することになったのです。
それゆえに、日本人は無宗教でも道徳教育がなされることとなりました。
日本国民が皆一様に礼儀正しいのも武士道の賜物である。
日本人は礼儀正しいと言われますよね。
それは武士道にある「礼」という考え方が関係しています。
この心得が残り続ける限り、武士道精神も消えることはないでしょう。
武士道は確固たる教義もなく、守るべき公式もないので、一陣の風であえなく散ってゆく桜の花びらのように、その姿を消してしまうであろう。
新渡戸稲造は、武士道がいづれ消え去ってしまう文化だと語っています。
確かに個人主義が台頭してきて、ポリコレが浸透していくと、徐々に欧米化していくはずです。
しかし武士道精神がこの世から滅び去るわけではなく、日本人の心の中には残り続けると思います。
武士道精神を理解しよう!
「武士の生き方はかっこいい!」と言われることもありますが、侍という生き方はとても奥深いのです。
ここまで読み進めた人は、きっと武士道精神が理解できたことでしょう。
日本人の道徳観念の根底にあるのが大和魂であり武士道精神です。
これを理解すればビジネスにも役立つはずなので、ぜひ新渡戸稲造が残した「武士道」を一度読んでみてください。
