世界で最も発行部数が多い書籍をご存じでしょうか?
それは「キリスト教の聖書」です。
全世界で読み継がれている「世界的ベストセラー」に書かれている言葉は、どれも魅力的な名言ばかりです。
そこで今回は、新約聖書に記されている名言を解説していきたいと思います。
キリスト教は世界最大の教徒数を誇る宗教なので、きっと参考になる点があるはずです。
短い言葉を厳選したので、ぜひ最後までご覧ください。
※編集部にはキリスト教徒がいない為、知識の範囲で解説しています。
新約聖書の名言集まとめ
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。
<マタイによる福音書 6章25節>
衣食住は人間の基本ですが、それについて悩むと「もっともっと」という欲が出てきます。
そのような状態になってしまうと、今現在の幸福感など忘れ、人間は欲望に支配されてしまうのです。
明日のことを思いわずらうな。
明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
<マタイによる福音書 第6章34節>
多くの悩みを抱えても仕方ありません。
今日のことは今日消化して、明日に残すのはやめましょう!
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
探せ、そうすれば、見いだすであろう。
門を叩け、そうすれば、あけてもらえるであろう。
<マタイによる福音書 第7章7節>
キリスト教には「神様」という存在がいるので、人間が一生懸命に望めば、その願いを神が叶えてくれると考えられています。
重要なのは信仰心なのです。
狭い門から入れ。
滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そしてそこから入って行く者が多い。
命に至る門は狭く、その道は細い。
そしてそれを見いだす者が少ない。
<マタイによる福音書 第7章第13~14節>
これはキリスト教の考え方ですが、もし何かを選択する場合は、より難しい方を選択するべきと言われています。
そして「大きな門」か「狭い門」のどちらかを必ず選ばなければならないので、「門を通らない」とか「別の門を探す」という選択肢はないのです。
そう考えた場合、キリスト教の信者は「狭い門」を選ぶしか選択肢が無いことになります。
つまりそれが幸福になるための道筋ということです。
あなた方は、地の塩である。
もし塩の効き目がなくなったら、何によってその味が取り戻されようか。
もはや何の役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。
<マタイによる福音書 5章13節>
塩が役に立つのは、食べ物に味をつけたり、保存を効かせるためですよね。
つまり外部に働きかけるからこそ、その価値が発揮されるのです。
キリスト教は実践的な宗教なので、行動することを推奨しています。
その教義に基づいて、外部との摩擦を恐れず、積極的な行動を求めているのです。
心の貧しい人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。
<マタイによる福音書 5章3節>
「心の貧しい人」というのは、経済的な困窮者ではありません。
自分は無力で、神の力によってのみ自分は救われるという信仰心を持っている人のことを言います。
そのような人たちにはキリスト教があるので、幸いであると言っているのです。
悲しんでいる人たちは、さいわいである。
彼らは慰められるであろう。
<マタイによる福音書 5章4節>
先程と同様に、「悲しんでいる人」というのはただ落ち込んでる人ではありません。
物事を正確かつ悲観的に捉えていて、神による助けを心から待ち望んでいる人のことを言います。
そのような人たちは「神様から救済される」と言っているのです。
柔和な人たちはさいわいである。
彼らは地を受けつぐであろう。
<マタイによる福音書 5章5節>
「柔和な人たち」とは、心が柔軟で、神様の教えを素直に受け入れることができる人のことを言います。
そのような人達は、神様の意思に従う人たちなので、地上を支配できると言っているのです。
なぜかと言うと、神様は地上を保全したいと考えているので、神の意思に従順な人に地上の支配を任せるからです。
義に飢えている人たちは、さいわいである。
彼らは飽き足りるようになるであろう。
<マタイによる福音書 5章6節>
”義”は中国思想と同じですが「正義」とか「正しいこと」という意味の言葉です。
世の中には悪が蔓延していますが、それらはイエス・キリストの最後の審判によって、浄化されると信じられているのです。
心の清い人たちはさいわいである。
彼らは神を見るであろう。
<マタイによる福音書 5章8節>
神の存在を信じ、神に祈りを捧げる人だけが、神様から救われるのです。
平和をつくり出す人たちはさいわいである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
<マタイによる福音書 5章9節>
平和を実現するために、罪を持たないイエス・キリストが十字架に磔にされ処刑されました。
この犠牲があったおかげで、人間は平和を享受できていると、キリスト教徒は考えているのです。
しかし実際には世の中に悪が蔓延しているので、本当の平和が訪れるのは最後の審判のタイミングです。
つまりイエスが復活し、悪を滅ぼし、神の子だけを救うのです。
からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい。
<マタイによる福音書 10章28節>
キリスト教徒は、自分は選ばれた存在なので、神によって地獄に落とされることは無いと確信しています。
しかし、それができる神の力を恐れてもいるのです。
わたしがあなた方をつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。
だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
<マタイによる福音書 10章16節>
世の中には悪が蔓延しているので、賢いだけでなく、時には素直でなければ、生き残れないのです。
ちなみにキリスト教における蛇とは、一般的に「邪悪な者」「悪魔」などを意味しています。
アダムとイブをたぶらかせ、原罪を負わせた存在も蛇なのです。
地上に平和をもたらすために、私がきたと思うな。
平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲違いさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。
<マタイによる福音書 10章34~36節>
この名言は人間関係を崩壊させるような印象を持ちますが、信仰心について説いた言葉なのです。
この名言の中に出てくる「つるぎ=信仰心」なので、信仰心が強い人ほど、身内と仲たがいする可能性があることを諭したのです。
つまり、身内がキリスト教信者でなければ、わかり合うことなどできませんよね。
それほどの覚悟を持たなければ、神から救われることは無いと言いたいのです。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
<ヨハネによる福音書 12章24~25節>
キリスト教における最後の審判では、死んだ人も復活すると考えられているので、純粋なキリスト教徒はそれほど死を恐れていません。
そのような前提に立った上で、自己犠牲を払うように諭しているのです。
この名言に出てくる「一粒の麦」とはあなたのことです。
自分に厳しく律すれば、多くの人を助けることに繋がっていき、豊かな実を結ぶようになると言っているのです。
キリストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。
だから私はキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。
なぜなら私が弱いときにこそ、私は強いからである。
<コリント人への第二の手紙 12章9~10節>
キリスト教では「信仰心が強い人は必ず神から救われる」と考えられています。
なので、罪にまみれ、弱さを背負った自分でも良いのです。
そのような人でも、最終的には神から救われる強人になれるからです。
すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
私は柔和で心のへりくだったものであるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。
そうすればあなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
<マタイによる福音書 11章28~30節>
これはルールに縛られている人に対して、キリスト教をPRしている言葉だと思います。
この名言の中に出てくる「重荷」とは律法のことです。
色々面倒なルールに縛られることを、イエス・キリストは重荷だと表現しているのです。
患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す。
<ローマ人への手紙 5章3~4節>
患難(かんなん)は悩みや苦しみのことを言います。
それらは忍耐を生み出して、苦しみに耐える事は錬達(れんたつ)を生み出します。
ちなみに「練達」とは、ものごとを熟知し達人の域にあることを言います。
そのような人は世の中に希望を与えるのです。
たとい私たちの内なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、溢れるばかりに私たちに得させるからである。
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。
見えるものは一時的であり、見えないものは永久に続くのである。
<コリント人への第二の手紙 4章16~18節>
私たちはいつか死にますが「イエス・キリストが救世主だ!」と信じる人は、最後の審判によって永遠の命を得るのです。
目に見える現実世界は一瞬で終わり、本当の平和は永遠に続くと考えているのです。
私の兄弟たちよ。
あなた方が色々な試練にあった場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
あなた方の知っている通り、信仰が試されることによって、忍耐が生み出されるからである。
だから、なんら欠点のない完全な出来上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。
<ヤコブの手紙 1章2~4節>
先ほど解説したように、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出します。
よって、困難な試練を喜びなさいと言っているのです。
「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかしわたしはあなたがたに言う。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
<マタイによる福音書 5章43~44節>
これは一見すると博愛主義のように感じますが、決してそうではありません。
キリスト教における「隣人を愛する」という考え方は、敵と味方をきちんと区別する前提に立っています。
その上で敵を愛することを推奨しているのです。
敵には誰しも憎しみが湧きますが、それを上回る愛情を持てれば、愛することができると言っているのです。
あなた方を迫害する者を祝福しなさい。
祝福して、呪ってはならない。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
<ローマ人への手紙 12章14~15節>
憎しみは無限に連鎖していきます。
その鎖を断ち切るためには、どこかで真逆の行動をとらなければいけません。
キリストはそのような行動力を教徒に求めたのです。
あなたは施しをする場合、右手のしていることを左手に知らせるな。
それは、あなたのする施しが隠れているためである。
<マタイによる福音書 6章3~4節>
「右手のしていることを左手に知らせるな」という部分は、キリスト教お得意の隠喩表現です。
この部分には「施したことを人に教えるな」という意味がある一方、「施したことを他人から褒めてもらおうとするな」という戒めも含まれています。
そのような施しは良い行為ですが、それによって救われようとしてはいけないと諭しているのです。
善行は全ての人間がやるべきことで、救いは信仰によってのみ実現すると考えられているのです。
あなた方は自分のために、虫が食い、さびがつき、また盗人らが押しって盗み出すような地上に宝を蓄えてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また盗人らが押し入って盗み出すこともない天に宝を蓄えなさい。
<マタイによる福音書 6章19~20節>
地上とは現実社会のことを言っています。
そこに財産(金銭や名誉など)を蓄えるのではなく、天に宝を蓄えるように推奨しているのです。
ちなみに天に蓄える宝とは「神に対する信仰心」のことを言っています。
そのような信仰心は虫も食わず、錆びることもなく、盗人に盗まれることもないのです。
誰もふたりの主人に兼ね仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。
あなた方は神と富とに兼ね仕えることはできない。
<マタイによる福音書 6章24節>
キリスト教にとって、富はしばしば批判の対象にされています。
富は権力化することがあるので、それによって信仰心が薄くなってしまうからです。
そのような膨れ上がった富は、自力で救済するように動き出します。
そうではなくて、キリスト教では信仰心によってのみ救済されることを求めているのです。
宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。
そうすれば彼らは返礼ができないから、あなたは幸いになるであろう。
正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。
<ルカによる福音書 14章13~14節>
人から与えられることを求めるのではなく、人に与えることをキリスト教は推奨しています。
そのような考え方を教えてくれる名言だと思います。
この水を飲む者はだれでも、また乾くであろう。
しかし、私が与える水を飲むものは、いつまでも乾くことがないばかりか、私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がるであろう。
<ヨハネによる福音書 4章13~14節>
これはサマリヤ人の女にイエスが言った言葉です。
「私が与える水」とは、イエスによる救済を意味しています。
口から水を飲んでも、時間と共にまた喉が渇きますが、イエスによる救済は人生を豊かにするだけでなく、最後の審判によって永遠の命も得られると言っているのです。
よく聞きなさい。
心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう。
この幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉いのである。
<マタイによる福音書 18章3~4節>
これは権力争いをする人々を見て、キリストが言った名言です。
イエスは地上での富(金銭や名声など)を求めるのではなく、信仰心を高めるように説いたのです。
それ自体汚れているものは一つもない。
ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。
<ローマ人への手紙 14章14節>
これは物理的な「汚れている」という考えではなく、精神的な話になります。
人間としての内面が汚れている人にとっては、何でも汚れている状態になってしまうのです。
試みる者が来て言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。」
イエスは答えて言われた「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである。」
<マタイによる福音書 4章3~4節>
ここで言われている「試みる者」とは悪魔のことです。
イエスが断食している時、石をパンに変えるように悪魔が挑発してきたのです。
しかし、イエスは神によって救われると考えていたため、その挑発には乗らなかったのです。
私はよい羊飼いである。
よい羊飼いは羊のために命を捨てる。
羊飼いではなく羊が自分のものでもない雇人は、狼が来るのを見ると羊を捨てて逃げ去る。
そして狼は羊を奪い、また追い散らす。
<ヨハネによる福音書 10章11~12節>
ここで言う「羊飼い」とは、救世主を意味しています。
羊というのは、救いを求めるキリスト教徒のことです。
それを救う役目がイエス・キリストだと言っているのです。
まとめ
ここまで聖書に記載された名言を厳選して解説しました。
イエス・キリストの思想や考え方が理解できたはずなので、ぜひこの知識をあなたの人生やビジネスに活かしてください。