
マルクス・トゥリウス・キケロは紀元前100年頃に生きた、古代ローマの人物です。
政治家であり哲学者でもありましたが、「古代ローマ最強の弁護士」という異名を持つほど偉大な人物なのです。
実際に、イタリアのローマにある裁判所の前には『キケロの銅像』が立っているほどです。
そこで今回は、マルクス・トゥリウス・キケロの名言集をご紹介したいと思います。
キケロの思想を理解する為にも役立つので、ぜひご覧ください。
キケロ(キケロー)とは?
マルクス・トゥリウス・キケロは、古代ローマの哲学者にして、弁論家であり、偉大な政治家でもあります。
誠実であるのはもちろん、高潔な人物としても知られていました。
キケロが活躍した時代は、共和政ローマ末期の、いわゆる「内乱の一世紀」にあたります。
つまりカエサル(シーザー)、ポンペイウス、クラッススがいた「三頭政治」の時代ということです。
キケロは「共和制」を熱心に支持していたので、結果的にカエサルから追放される羽目になりました。
共和制また共和国・共和政は、国家元首などに君主を持たない政治体制である。共和制では、国家の所有や統治上の最高決定権を個人ではなく人民または人民の大部分が持つ。共和制の中に、特に民主主義を国の基本的な原則として重視する制度は民主共和制と言い、この制度を採用する国は民主共和国と言う。
カエサルが暗殺された後、政界で起きた内乱に巻き込まれ、最後にはアントニウス一派によってキケロも暗殺されましたが、キケロは「共和政ローマ」というグローバルな視野を持ち、世界国家の構想を打ち出した重要人物だと言われています。
キケロの名言集まとめ
人々から賞賛される最も近道の方法を教えよう。
「私は人々からこう思われたい」という理想像をまず思い描く。
そして、その理想像どおりに振る舞うことである。
とてもシンプルな考え方ですが、実践するのは難しいですよね。
しかしこれが理解できれば、きっと実践することもできるはずです。
賢い人とは、死が穏やかな世界への旅立ちだと信じられる人である。
だから、彼は死が近づいても慌てふためくことがない。
これはストア派らしい名言だと思います。
正確に言えば「キケロはストア派ではありません」が、限りなくストア派に近い考え方を持った人物です。
ストア派は「死を恐れることがない」ので、決して慌てふためくこともないのです。
ストア派は、前300年ごろキプロスのゼノンが創始し、ローマ時代まで続いたギリシア哲学の一派です。ゼノンが彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で学を講じたので、この名前がつきました。ストア派では、「世界は普遍的ロゴス(世界理性)によって合目的的に支配されている」とする自然学説に基づいた実践知を説いているのが特徴です。
「大切な思い出はいつまでも忘れない」と思い込んでいる者は、自分の記憶力に自惚れている。
人の記憶力はそれほど優れてはいない。
キケロ曰く「記憶は繰り返し甦らせないと消失する」ので、大切な記憶であればあるほど”甦らせる努力”をするべきということです。
人は楽しみがなければ我慢ができない。
楽しみがなければ、前向きに働けませんよね。
これはマネジメントする立場のリーダーが知っておくべき名言だと思います。
孤独はあらゆる楽しみを奪ってしまう。
キケロは「食べ物は十分にあり、生活に必要なものがすべて揃っているが、周りに人影が全く見えない」という状況を想像して欲しいと語っています。
孤独というのは、人生における楽しみを奪ってしまう可能性があるのです。
年を取ると忘れぽくなるけれど、それは記憶力の衰えではない。
年をとっても、己が執着していることは忘れないものだ。
つまり、年を取って忘れぽくなるのは、記憶力が衰えたからではなく、執着心や好奇心が衰えたからに過ぎない。
キケロは「老人がカネの隠し場所を忘れたというのは聞いたことがない」と言っています。
その一方で、若い人でも物忘れすることはあります。
そのことから分かるのは、年齢が問題なのではなく”執着心(=情熱)”があるかないかだと思います。
友情には、二つの原則がある。
第一に、友に誠実であること。
第二に、友にも誠実さを求めること。
馴れ合いの関係ではなく、お互いに切磋琢磨できる関係性こそが”本当の友情”だとキケロは語っています。
友情を抱くと人は寛大になり、物惜しみをしなくなる。
本当の友情は、相手に見返りを求めることがありません。
真の友情とは「ただそれがあるだけで十分」と言えるものだと思います。
他人を非難すると、自分の心が汚れる。
SNSでの誹謗中傷が社会問題になっていますが、『他人を非難すること』に喜びを持ってはいけないとキケロは語っています。
他人を非難するということは、自分にとってのメリット(自己成長など)がなく、「他人を傷つけた(=他人から恨まれた)」というデメリットだけを被るハメになります。
友が過ちを犯したなら、忠告するべきだ。
本当の友達だからこそ言えることがあると思います。
友達にとっては”耳の痛い話”かもしれませんが、それを”喜び”だと感じてくれる人が、本当の友人なのだと思います。