
安藤百福(あんどうももふく)はチキンラーメンやカップヌードルで有名な日清食品の創業者です。
1910年に生まれて、世界初のインスタントラーメン(チキンラーメン)を開発したのが48歳の頃でした。
そして世界初のカップ麺「カップヌードル」を発明したのが61歳の時です。
意外にも遅咲きの起業家だったのですが、惜しくも2007年(97歳)で亡くなりました。
しかし、インスタントラーメンという文化を創造した起業家精神は、今でも様々な人達に引き継がれています。
そこで今回は、日清食品創業者「安藤百福」の名言集をご紹介したいと思います。
安藤百福の人生や凄さが伝わる言葉ばかりなので、ぜひ最後までご覧ください。
安藤百福の名言まとめ
一杯のラーメンのために人々はこんなに努力するものなのか。
ラーメンという食べ物に、初めて深い関心を持った。
太平洋戦争で大阪の街は焦土と化しました。
その街の中には闇市が発展し、そこにラーメン屋台が出てきました。
寒さに震えながらラーメン屋台に並んでいる人達を見て、安藤百福は「ラーメン」というビジネスに関心を持ったそうです。
遅い出発とよく言われるが、人生に遅すぎるということはない。
安藤百福がチキンラーメンを開発したのは、昭和58年8月25日でした。
このとき安藤百福は48歳だったので、世間一般からは「遅咲き」と言われていたのです。
しかしそれに対して「人生に遅すぎるということはない」と反論したのです。
私は義務教育を受けただけで何の学問もないが、商売の取引を通じて実に多くのことを学んだ。
取引とは、取ったり引いたりするもので、取りすぎて相手を殺してしまっては元も子もない。
安藤百福は商売人の子として育てられたので、幼い頃からビジネスに携わっていました。
幼い頃から商売においての重要なポイントを学ぶことができたと語っています。
私の事業意欲は少しも衰えない。
片時もじっとしておれない性分なのである。
1941年、日本は戦争に突入しました。
それでも安藤百福は商人としての魂が消えることはなかったと語っています。
人間にとって、食こそが最も崇高なものだと感じられた。
濡れ衣を着せられて留置所に入れられた時、そこで食べた粗末な食事に感銘を受けたそうです。
即席麺の開発の源を辿っていくと、この時まで遡ると安藤百福は語っています。
やはり食が大事なんだ。
衣食住と言うが、食がなければ衣も住も、芸術も文化もあったものではない。
終戦後は食糧が足りず、餓死者が出ている状態でした。
そのような状況を見て、安藤百福は改めて食の重要性に気がついたそうです。
安藤百福は36歳の時、食に関するビジネスへ転換する決意を固めたのです。
私は昔から面白いテーマが見つかると、我を忘れてしまうところがある。
これはとても起業家らしい名言だと思います。
起業家として成功する人は「猪突猛進タイプ」なので、まさに起業家気質のある人だったのでしょう。
責任の持てない仕事は、いくら頼まれても軽々しく引き受けてはいけないのだ。
安藤百福はある時、新設する信用組合の理事長になって欲しいと懇願されます。
金融ビジネスの経験がなかったので、何度も断りますが、再三依頼されたため仕方なく引き受けることになってしまいました。
しかしその信用組合は結果的に破綻することになり、その理事長だった安藤百福は社会的責任を問われたのです。
その結果、安藤百福は文字通り「一文無し」の状態になったのです。
失ったのは財産だけではないか。
その分だけ経験が血や肉となって身についた。
これはとても前向きでポジティブな名言だと思います。
無一文になった安藤百福でしたが、考え方は前向きだったので、決して諦めることがなかったのです。
食品の開発は、たった一つしかない絶妙なバランスを発見するまで、これでもかこれでもかと追及し続ける仕事なのである。
1957年、安藤百福は即席麺の開発に着手します。
その場所は、自宅の庭に作った簡易的な研究小屋でした。
そこで何度も失敗を繰り返すことになりますが、その中で発見したのは「食品とはバランスである」ことだったと語っています。