其の位に在らざれば、其の政を謀(はか)らず。
<訳>自分がその地位、役職にないのであれば、その仕事には口出ししないことだ。
これは分別を守ることを推奨した名言です。
特定の地位や役職にいる人は、そのプロフェッショナルだと思います。
それ以外の人(=素人)がプロフェッショナルへ口出しするのは慎んだ方が賢明なのです。
徳は孤ならず。必ず隣あり。
<訳>徳にはいろいろあるが、バラバラに孤立していない。一つを身につければ、必ず隣り合わせにある徳もついてくる。
孔子が立派な人物だと言うポイントは「仁義礼智信」を身につけていることです。
これは「五常の徳」と呼ばれており、下のような意味があります。
- 『仁』:人を思いやり、優しさをもって接し、己の欲望を抑えて慈悲の心で万人を愛すること。
- 『義』:私利私欲にとらわれず、人として正しい行いをし、自分のなすべきことをする生き様。
- 『礼』:人間社会において、社会秩序を円滑にするための礼儀作法。
- 『智』:学問に励み、知識を得て、正しい判断が下せるような能力。
- 『信』:信頼、信用、正直など、人との約束を守り、常に誠実であること。
これらはすべて繋がっていると孔子は語っています。
力足らざる者は中道(ちゅうどう)にして廃す。今女(いまなんじ)は画(かぎ)れり。
<訳>本当に力が足りない人は、途中で力尽きて止めることになる。今お前は自分の限界を設定して、できない言い訳をしている。
これは弟子から「私は力が足りず、なかなか学問を身につけるに至りません」と言われたことに対して、孔子が語った名言です。
自分の限界に挑戦して、それを突破した時に人間は成長するのです。
小人の過つや、必ず文(かざ)る。
<訳>小人は失敗すると、必ず取り繕ってごまかそうとする。
「小人」というのは、人間的に成熟していない人を意味しています。
論語では「君子」と比較してよく使われる表現ですが、自分の失敗を認めず、言い訳する人を「小人」だと孔子は揶揄しているのです。
苗にして秀でざる者あり。秀でて実らざる者あり。
<訳>穂を出さず、苗のままの人がいる。穂を出しても、実らず終わる人もいる。
せっかく才能があるのに、その芽を出さずに終わるのはもったいないと思います。
才能を開花させるためには、学び続けて、チャレンジ(行動)するしかないのです。
如之何(いかん)、如之何と曰わざる者は、われ如之何ともすること末きのみ。
<訳>「これはどうすればいいか」と懸命に考えない人は、私にもどうすることもできない。
学びには主体性が必要です。
それがない人は成長できないのです。
君子は義にさとり、小人は利にさとる。
<訳>君子は物事の道理である「義」が分かっている。その一方で小人は損得が分かっている。
義とは義理人情であり、正義を意味する言葉です。
つまり人の心が動くような感情のことを意味しています。
その一方で、小人には「義」の感情がないので、損得でしか物事を考えられないのです。
仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、ここに仁至る。
<訳>仁は果たして遠くにあるものだろうか。そんなことはない。私たちが仁を心から求めるなら、仁はもうここにある。
仁は徳の中でも最高位に位置づけられています。
なので、なんとなく手に入れるのが難しいように感じますが、孔子は「仁はすぐそばにある」と言っているのです。
三軍も帥を奪うべきなり。匹夫(ひつぶ)も志を奪うべからざるなり。
<訳>軍隊を率いる総大将でも倒すことはできる。しかし、その心の中にある「志」を奪うことは誰にもできない。
この名言が伝えたいのは「志(ビジョンや夢など)」を掲げる大切さについてです。
誰にも奪えず、誰にも曲げられない「志」こそが人生の道標になるのです。
何か大事を成し遂げたい場合、絶対に「志」を掲げましょう!
仁に当たりては、師にも譲らず。
<訳>仁を実践する為には、たとえ師匠であっても遠慮はいらない。
ビジネスパーソンは上司に遠慮してしまうかもしれませんね。
でも自分の考える「仁」を実践する為には、他者に遠慮する必要などありません。
議論の出発点は常に対等ということです。
【仁】人を思いやり、優しさをもって接し、己の欲望を抑えて慈悲の心で万人を愛すること。