平和をつくり出す人たちはさいわいである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
<マタイによる福音書 5章9節>
平和を実現するために、罪を持たないイエス・キリストが十字架に磔にされ処刑されました。
この犠牲があったおかげで、人間は平和を享受できていると、キリスト教徒は考えているのです。
しかし実際には世の中に悪が蔓延しているので、本当の平和が訪れるのは最後の審判のタイミングです。
つまりイエスが復活し、悪を滅ぼし、神の子だけを救うのです。
からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい。
<マタイによる福音書 10章28節>
キリスト教徒は、自分は選ばれた存在なので、神によって地獄に落とされることは無いと確信しています。
しかし、それができる神の力を恐れてもいるのです。
わたしがあなた方をつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。
だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
<マタイによる福音書 10章16節>
世の中には悪が蔓延しているので、賢いだけでなく、時には素直でなければ、生き残れないのです。
ちなみにキリスト教における蛇とは、一般的に「邪悪な者」「悪魔」などを意味しています。
アダムとイブをたぶらかせ、原罪を負わせた存在も蛇なのです。
地上に平和をもたらすために、私がきたと思うな。
平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲違いさせるためである。
そして家の者が、その人の敵となるであろう。
<マタイによる福音書 10章34~36節>
この名言は人間関係を崩壊させるような印象を持ちますが、信仰心について説いた言葉なのです。
この名言の中に出てくる「つるぎ=信仰心」なので、信仰心が強い人ほど、身内と仲たがいする可能性があることを諭したのです。
つまり、身内がキリスト教信者でなければ、わかり合うことなどできませんよね。
それほどの覚悟を持たなければ、神から救われることは無いと言いたいのです。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
<ヨハネによる福音書 12章24~25節>
キリスト教における最後の審判では、死んだ人も復活すると考えられているので、純粋なキリスト教徒はそれほど死を恐れていません。
そのような前提に立った上で、自己犠牲を払うように諭しているのです。
この名言に出てくる「一粒の麦」とはあなたのことです。
自分に厳しく律すれば、多くの人を助けることに繋がっていき、豊かな実を結ぶようになると言っているのです。
キリストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。
だから私はキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。
なぜなら私が弱いときにこそ、私は強いからである。
<コリント人への第二の手紙 12章9~10節>
キリスト教では「信仰心が強い人は必ず神から救われる」と考えられています。
なので、罪にまみれ、弱さを背負った自分でも良いのです。
そのような人でも、最終的には神から救われる強人になれるからです。
すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
私は柔和で心のへりくだったものであるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。
そうすればあなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
<マタイによる福音書 11章28~30節>
これはルールに縛られている人に対して、キリスト教をPRしている言葉だと思います。
この名言の中に出てくる「重荷」とは律法のことです。
色々面倒なルールに縛られることを、イエス・キリストは重荷だと表現しているのです。
患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す。
<ローマ人への手紙 5章3~4節>
患難(かんなん)は悩みや苦しみのことを言います。
それらは忍耐を生み出して、苦しみに耐える事は錬達(れんたつ)を生み出します。
ちなみに「練達」とは、ものごとを熟知し達人の域にあることを言います。
そのような人は世の中に希望を与えるのです。
たとい私たちの内なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、溢れるばかりに私たちに得させるからである。
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。
見えるものは一時的であり、見えないものは永久に続くのである。
<コリント人への第二の手紙 4章16~18節>
私たちはいつか死にますが「イエス・キリストが救世主だ!」と信じる人は、最後の審判によって永遠の命を得るのです。
目に見える現実世界は一瞬で終わり、本当の平和は永遠に続くと考えているのです。
私の兄弟たちよ。
あなた方が色々な試練にあった場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
あなた方の知っている通り、信仰が試されることによって、忍耐が生み出されるからである。
だから、なんら欠点のない完全な出来上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。
<ヤコブの手紙 1章2~4節>
先ほど解説したように、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出します。
よって、困難な試練を喜びなさいと言っているのです。