政府は命令を下す権力はあるが、それを説明し実行に移すのは民間の力である。
この名言にあるような『実行力のある国民』を育成するために、慶應義塾大学は作られました。
そこで学ぶ仲間たちを慶応社中(慶応で学ぶ仲間)と呼んだのです。
今日まで国としての独立を失わなかったのは、国民が鎖国の風俗習慣になれ、外国との戦争による国家の危機がなかったためである。
これはつまり『日本はぬるま湯に浸かっている』ことを指摘しているのです。
外部環境は変化しているのに、自分は変わらなければ、それは相対的に衰退を意味します。
十分注意しましょう。
相手に劣等感を持ってしまったら、たとえ自分に多少の知識があっても、それを外に向かって広めることができようか。
これは外国人に対して、弱腰になってしまう日本人に向けたメッセージです。
日本人は『外国至上主義』という考え方に洗脳されているので、どうしても外国人に劣等感を抱いてしまいます。
そのような姿勢は、最初から負けを意味するのでやめましょう。
国民が政府に従うというのは、政府が作った法に従うのではなく、自分が作った法に従うのである。
政治家の仕事は立法です。
しかし、議会制民主主義においては国民から政治家が選出されます。
つまり政治家を選ぶのは国民ということです。
ということは、間接的に国民自らが法律を作ることになるのです。
そう考えた場合、法律を犯した人は『自らが作った法律によって罰せられる』という概念になります。
元禄の世に、浅野家の家来たちが主君の仇とて吉良上野介(きらこうずけのすけ)を殺したことがある。
世にこれを赤穂(あこう)の義士と誉め称えた。
これは大きな間違いではあるまいか。
四十七士の忠臣蔵(赤穂事件)は、有名な逸話として知られていますよね。
しかし福沢諭吉は「この事件は法律違反であり大きな過ちである」と断じています。
赤穂事件はすなわち『私刑』なので、明らかな犯罪行為だと言うのです。
赤穂事件の後に四十七士は切腹しましたが、もしこの事件の後に四十七士が生き残っていた場合、吉良家の一族がまた仇討ちをして、また赤穂一族も仇討ちをし返すという悪循環に陥ります。
これでは無政府&無法律の社会だと、福沢諭吉は語っています。
日本が法治国家である限り、私刑は許されないのです。
この国に住み、国民として政府とどんな約束を結んだのか。
必ず国法は守る。
そしては我が身の保護を受けたいと約束したはずである。
法律を守ることは、自分の身を守ることに繋がります。
つまり、法律は自分自身を守ってくれるということです。
その保護を受ける代償として、自分も法律を守るという約束をするのです。
逆に法律を守らないということは、「いざという時に自分のことを守らなくてOK」と宣言することと同義なのです。
すなわち、法律を守ることと、法律に守られることは、相互契約なのです。
およそ国民には一人の身で二つの務めがある。
- 政府の下に立つ一人民という立場
- 全員の合意を取りつつ日本国の運営に当たる立場
福沢諭吉曰く、国民にはこの2つの役割があります。
これらはそれぞれ『①社員』『➁経営者』に該当します。
それぞれに守るべき義務があり、役割があると福沢諭吉は語っています。
蟻と同じレベルになったくらいで、満足するな!
蟻は自分で巣穴を作ります。
そして、自分で食べ物を探して、それを冬に向けて蓄えていきます。
これと同じように、毎日働いて、お金を稼いで、そのお金を老後のために貯金する…
この程度の日本人が多すぎると、福沢諭吉は警鐘を鳴らします。
夢や目標を持たずに日々過ごしているだけの人は、ただ生まれて死ぬだけです。
人間が人間らしくあるためには、何かしら生きた痕跡を残さなければいけません。
それが結果的に『社会への貢献』となるのです。
人間は一つのものを得ると、すぐに次のものが欲しくなり、満足は不満に変じて、飽きることを知らないものである。
人間の欲望は限りないので、自分で制御することが必要です。
そのやり方というのは『欲しいもの』を求めないことです。
例えば『欲しい洋服』があった場合、「それは本当に必要なのか?」と立ち止まって考えてみるのです。
つまり『必要なもの』だけを求めれば、人間の欲望は制限できるはずです。
チャンスに恵まれなければ、有能な者もその力を発揮できない。
「チャンスがない…」と嘆いている人を見かけますが、本当にそうなのでしょうか?
チャンスを掴むための努力をどれほどしたのでしょうか。
努力している人には必ずチャンスが訪れますが、適切な努力をしていないと『チャンスだと気づかない』こともあるのです。
これはつまり『準備する』ことの大切さを伝えています。