貧困を作り出したのは神ではありません。
私たちこそ、その張本人なのです。
神の前で私たちは皆、貧しい者なのです。
私たち人間が貧富の格差を生み出しているので、罪を背負っているのです。
先ほど「貧しい者=キリスト」だとお伝えしましたよね。
つまり、全人類は罪を背負っている貧しい人なのです。
富める国の中で中絶を合法化するところがあれば、その国は間違いなく世界で最も貧困な国です。
マザーテレサは「生命は生存するために生まれるのであって、抹殺されるために生まれるのではない」と言っています。
私たちはイエスにしているかのように貧しい人々に仕えてはいけません。
彼らはイエスその方だから仕えるのです。
「貧しい人=キリスト」なので、マザーテレサにとって奉仕することは当たり前なのです。
貧しい人々は私たちのお情けを必要としていません。
彼らが求めているのは、私たちの愛と優しさなのです。
貧しい人々が求めているのは、憐みではなく愛情です。
つまり人間としての尊厳に敬意を払うことなのです。
貧しい人々を愛すること、その人々に奉仕するということは、私たちの残り物、または私たちの嫌いなものを彼らに与えることとは違います。
流行遅れになった、又は飽きてしまったが故に、自分では着なくなった衣服を与えることでもないのです。
「リサイクル」という考え方が、まさにいらないものを人にあげるという考え方ですよね。
それ自体は経済循環システムなので否定する必要ありませんが、「貧しい人への奉仕」という観点では間違っているということです。
善い行いは、一つ一つ繋がって愛の鎖を作っていきます。
マザーテレサの言う通り、善い行いが連鎖していけば、世の中はもっと良くなるはずです。
病気にはそれぞれ特効薬があります。
ところが、愛されないが故の淋しさだけは薬で癒されません。
これは非常に奥深い名言だと思います。
絶対に医学では治せない病気があるということですね。
私たちは、愛し、愛されるために神に創られました。
この言葉は、まさにキリスト教の根本思想を体現しているような名言だと思います。
自分が犠牲になり、自分が傷つくまで人を愛することを恐れてはなりません。
キリスト教には自己犠牲の精神があります。
「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい。」ということです。
神が私に望んでいらっしゃるのは、事業を成功させることではなく、忠実に生きることなのです。
大切なのは結果ではなく、人間としての忠実さ(生き方)なのです。