仕事から得られる満足は私の精神を完全に満たし、他のことはすべて、心に触れなくなった。
お金を稼ぐために仕事をしたり、生活するために仕方なく働いている人がほとんどだと思います。
しかし本当に充実感のある仕事であれば、時間など気にせず年中無休で働いても苦にならないのです。
むしろそれで満足感が増していって、さらに人生が充実していくのです。
我々の意思は、知性がモノの善悪を表示するのに応じてのみ、それに従ったり、避けたりするのだから、よく行うためにはよく判断すれば十分であり、従って、最善を尽くすためには、つまり、あらゆる美徳と共に我々の手に入りうる他の全ての善を獲得するためには、出来る限りよく判断すれば十分なのである。
哲学者らしい難解な言い回しですが、これで言いたいことは「出来る限りベストを尽くせばOK」ということです。
結論はあくまでも結果論でしかありません。
最善を導こうとしても知識や経験にはバラツキがあるので、それを手繰り寄せることは困難なのです。
なのであくまでも状況判断に応じた最適解を求めれば良いのです。
私は疑うためにだけ疑い、常に非決定できないようにする懐疑論者たちを真似たわけではない。
デカルトのことを知っていくと、とにかく何もかも疑ってかかるので「単なる懐疑論者か…」と思ってしまうほどです。
しかし決してそんなことはありません。
デカルトは「私の精神に前から忍び込んでいたあらゆる誤謬を根絶していった」と語っています。
つまり、それが真理にたどり着くため、デカルトが選択したアプローチ方法だったということです。
私は検討する命題の虚偽あるいは確実性を根拠薄弱な憶測ではなく、明晰で確かな推論によって明らかにしようと努めて、どんなに疑わしい命題にぶつかっても、そこから常に、十分に確実な何らかの結論を引き出すことができた。
このステップはデカルトが真理にたどり着くために、かなり重要なポイントになっていると思います。
難しいので何を言ってるかわからないかもしれませんが、この名言が言いたいのは「不確実性からでも確実性が取れる」ことを発見したのです。
これはデカルトの思考を理解するためには、とても重要な名言だと思います。
感覚は時に私たちを欺くから、感覚が想像させる通りのものは何も存在しないと想定しようとした。
デカルトは思い込みや感覚で物事を判断しないように努めていました。
もはや病的にも思える言葉ですが、デカルトのアプローチとしてはこれが必要だったのです。
天才は難しいことを考えますよね。
全てを偽りと考えようとする間も、そう考えているこの私は必然的に何者かでなければならない。
これはデカルトが真理にたどり着いた時の名言です。
この段階でデカルトは「我思う故に我あり=コギト‐エルゴ‐スム(cogito, ergo sum)」という真理に気がついたのです。
どんな体もなく、どんな世界も、自分のいるどんな場所も仮想できるが、だからといって、自分が存在しないとは仮想できない。
デカルトは世の中全てのものに対して真理を求めました。
その結果、何も存在証明できないことを知ってしまったのです。
しかし、それを考えている自分自身がいることは証明できたのです。
私は一つの実態であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない。
自分という存在がいることを証明するために、ここに立っているという証明はいらず、身体があるという証明すらいらなかったのです。
必要なのは「自分は思考している」ということだけだったのです。
我々が完全無欠ではないゆえに、我々の思考も全てが真ではありえないのだから、思考の持つ真理性は、夢の中においてよりも、むしろ目覚めて持つ思考において、間違いなく見い出されるはずである。
夢は夢でしかないため、その存在を証明するのが難しいです。
なので、むしろ目覚めて思考している状態の方が、デカルトにとっては証明しやすかったのです。
我々の住むこの世界が、私の提示したような具合に創造されたと推論するつもりはなかった。
デカルトは自分の考える真理に到達しましたが、それでも創造神の存在は認めていました。
というよりも「神=自然法則」と言った方が正しいですが、何らかの力で世界が構成されたのは事実だと考えていたのです。
それを証明することができないので、都合よく「創造神」という言葉を用いたのでしょう。