私は自分の行為をはっきりと見て、確信をもってこの人生を歩むために、真と偽りを区別することを学びたいという、何よりも強い願望をたえず抱いていた。
この辺りからデカルトは真理の追求に没頭していきます。
たくさんの部品を寄せ集めてつくり、色々な親方の手を通ってきた作品は、多くの場合、一人だけで苦労して仕上げた作品ほどの完成度が見られない。
一人で作るのと、大勢の人が関わるのでは、決定的に違うことがあります。
それは「ビジョンが共有されていない」ということです。
一人でモノづくりする場合にはビジョンを完璧に掲げられますが、大勢の人が関わる場合、それが難しくなります。
なので、クリエイティブさを要求するのではなく、作業を要求すれば上手くいくでしょう。
大人になる前の子供は、色々な欲求や教師たちに長いこと引き回される。
しかしそれらの欲求や教師はしばしばお互いに矛盾し、またどちらも恐らく、常に最善のことを教えてくれたのではない。
哲学者らしい難しい言い回しですが、要するに真理を理解している人間が少ないことを揶揄しているのです。
それぞれ自分が正しいことを主張しますが、ほぼ全ての人間が間違った意見を持っているので、全体考察した場合はどうしても矛盾してしまうのです。
私がその時までに受け入れ信じてきた諸見解全てに対しては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ。
新しい知識(情報含む)を取り入れる場合、どうしても色眼鏡で物事を見てしまいます。
そのようになる理由とは、何らかの事前情報があったり、先入観があるためだと思います。
真実を理解するために、デカルトはそれらを一度を外すのを推奨しているのです。
私たちと全く反対の意見を持つ全ての人が、それゆえに野蛮で未開だというわけではなく、それどころか、多くの人が私達と同じかそれ以上に、理性を働かせていることに気づいた。
これも先入観で物事を見る危険性を語った名言だと思います。
勝手な先入観を持ってしまうと、物事の真理が見えなくなってしまうのです。
賛成の数が多いと言っても、何一つ価値のある証拠にはならない。
デカルトは、多くの人が間違った真理を理解していると考えていました。
なので、たとえ賛成の数が多かったとしても、それが正しいという証拠にはならないと考えていたのです。
法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家はごくわずかの法律が遵守される時の方がずっとよく統治される。
法律の数が多すぎると、しばしばその内容が被って、矛盾を生じることがあります。
そのことを揶揄した名言です。
私が明証的に真であると認めるものでなければ、どんなことも真として受け入れないことにする。
とてもデカルトらしく、哲学者らしい名言だと思います。
この考えがコギトエルゴスムに繋がっていきます。
私が検討する難問の一つ一つを、出来るだけ多く、しかも問題をよりよく解くために必要な小部分に分解すること。
マクロで見た場合に難しかったとしても、ミクロに分解してしまえば、内容を理解することができるはずです。
これは難問を理解するアプローチ方法について語った名言だと思います。
一つのことから他の事を演繹(えんえき)するのに必要な順序を常に守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなに隠れたものでも発見できる。
意思決定できない人は、演繹法(演繹的論理展開)を活用するのが良いかもしれません。
演繹法を学べば論理的思考が身につくので、ビジネスパーソンには必要不可欠な考え方が手に入ります。